コペンハーゲン解釈
ここまでの説明を聞いて、なんだか釈然としない、と感じた人は多いのではないでしょうか?
その理由はおそらく、光や電子が波と粒子という両方の性質を持つといいながら、いずれの理論も光や電子を波か粒子のいずれかで捉えて説明しているためでしょう。
実際、多くの物理学者が、この点についてなんとも釈然としない思いを味わっていました。
それはボーアも同様でした。
ボーアはこのとき、シュレーディンガー方程式と行列力学が数学的に等価であり、波動と粒子の二重性が同時に成り立つという量子力学の不思議な問題について考えていました。
そのためハイゼンベルクが、不確定性原理のアイデアを論文として発表させてほしいと許可を求めてきたとき、「この理論は多分正しくないから発表しない方がいい」と、拒否してしまったのです。
ハイゼンベルクの理論はあくまで電子を粒子として捉えていました。
不確定性原理についても、小さな電子にガンマ線などの別の粒子を衝突させることで発生するという説明の仕方をしていたのです。
けれど、ボーアにとって電子や光子の二重性はもはや除外することのできない問題でした。
電子の振る舞いは、粒子か波動かのどちらかを選択したのでは説明できないと直感的に理解していたのです。
しかし、ハイゼンベルクにとって不確定性原理は自信作の理論でした。そのため彼は悔しさのあまり、ボーアの目の前でぽろぽろ泣き出してしまったといいます。
せっかく良いアイデアがあるのに、上司が分からず屋で許可をくれない、という悩みを経験した人は多いかもしれませんが、このときのハイゼンベルクもそんな気分だったのでしょう。
しかしボーアが、シュレーディンガーの波動方程式を取り入れることで、不確定性のいくつかの問題が説明可能になることを示すと、ハイゼンベルクもそれを認めざるを得なくなりました。
正直ハイゼンベルクはシュレーディンガーの理論を取り入れることは気に入らなかったのですが、そこは妥協して修正した論文を発表します。
結果的にこの論文は非常に高く評価され、ハイゼンベルクは正教授の職を得て、コペンハーゲンの研究所を後にすることになります。
ちょっとしたしこりを残して、研究所を去る事になったのでハイゼンベルクは、ボーアに恩知らずな印象を与えなかったか気にしていました。
でも、ボーアはハイゼンベルクの才能も不確定性原理も高く評価していて、彼のことを褒めながらアインシュタインに意見を求める手紙を書いていたくらいなので、心配は無用だったでしょう。
その後ボーアは、「相補性」という自らのアイデアを核にして、波動と粒子という二重性の問題を1つにまとめようと奮闘します。
相補性とは、全く相容れない波動と粒子の性質のどちらか一方しか我々には見ることができないが、電子と光子はその両方の性質を排他的かつ相補的に持っているという考え方です。
これはどういった観測の仕方をするかが、電子の波動、粒子いずれかの性質を決定するという考え方でした。
ボーアはこの電子などが持つ、排他的かつ相補的な関係を同時に観測できないのは、自然界に備わった限界なのだと説明しました。
このアイデアを聞いたハイゼンベルクは、あまり納得がいかなかったようで「あんな考え方でいいなら、矛盾なく説明できるのは当然だろう」とパウリに愚痴ったといいます。
しかし1927年、ボーアはこの相補性の考えをまとめた最終的なアイデアを、イタリアで開催された国際物理学会で初めて公式に発表します。
それは、不確定性原理やシュレーディンガー方程式、ボルンの確率解釈など、これまでの量子力学研究で発見されたさまざまなアイデアを全て取り入れた、到達点と呼ぶべきものでした。
しかし、これを聞いた物理学者たちは、ハイゼンベルクを含め、皆が戸惑ってしまいます。
それは非常に驚くべきことを主張していました。
このときボーアが語った複雑な考えは後に「コペンハーゲン解釈」と呼ばれることになります。
これは現代の我々にとっても、非常に馴染み深い量子力学の解釈です。
それは要約するならば、次のようなことを言っていました。
「物事の状態は観測されるまで決定されることがない」
※こちらの記事は2020年に配信されたものを大幅に改訂して再配信しています。
記事解説の一部の表現を修正しました。