東大と京大に分かれて行われた戦前の邪馬台国論争
やがて時代は進み明治時代になると、学問は大学で行われるようになり、邪馬台国論争も大学へと舞台を移しました。
そして20世紀に入り、邪馬台国論争は新たな展開を迎えるのです。
1910年、歴史学者の白鳥庫吉(しらとりくらきち)東京帝国大学(現在の東京大学)教授は「倭女王卑弥呼考」を発表しました。
時を同じくして歴史学者の内藤虎次郎(ないとうとらじろう)京都帝国大学(現在の京都大学)教授も「卑弥呼考」を発表し、この論争に新たな視点をもたらしたのです。
その名の通りここでは両者とも「卑弥呼が古事記・日本書紀の誰にあたるのか」について論じていますが、「邪馬台国がどこにあったのか」についても論じています。
白鳥は倭人伝の史料的価値を高く評価し、里程・日数・方位や地名を検討しました。
彼は不弥国を太宰府近くに、邪馬台国を肥後国(現在の熊本県)に、狗奴国を九州南部の熊襲に位置づけました。
一方、内藤は倭人伝の史料批判を行い、九州説を批判して近畿説を主張しました。
彼は中国の『隋書』と『北史』に記された「倭国は、邪靡堆に都す,即ち魏志の所謂邪馬台なる者なり(倭国はヤマトにある。これは魏志倭人伝で邪馬台国があったところだ)」という記事を引用し、隋時代には大和を邪馬台としていたことから邪馬台国は大和国(現在の奈良県)にあると主張しました。
また、距離観や大国の位置に関して論じ、狗奴国を肥後国(現在の熊本県)と位置づけたのです。
このように、20世紀に入り邪馬台国論争は新たな解釈と論点が提供され、白鳥率いる東大派と内藤率いる京大派に分かれて激しい論争を行うようになりました。
このこともあって邪馬台国の研究は一躍ブームとなり、学者が研究論文を発表することが相次いだのです。
また従来の邪馬台国論争は魏志倭人伝をはじめとする文献を中心に行われていましたが、考古学者を中心に発掘された遺物や遺跡などといった考古学的考察を重視して研究する動きもみられ、史料一辺倒であった邪馬台国論争は新たな局面を迎えたのです。