九州説の逆転の一手は放射読みと吉野ケ里遺跡
その後戦後しばらくの間邪馬台国論争は膠着状態にありましたが、70年代に奈良県桜井市にある纏向(まきむく)遺跡の発掘が進むと、状況が動きます。
纏向遺跡からは2世紀末から4世紀前半にかけての遺物が多く発掘されており、日本有数の規模を誇っていることから、一気に近畿説が優位に立ちました。
また卑弥呼が生きていた時代の大型建物なども見つかっており、「邪馬台国論争は纏向でもう決着がついた」という人までいます。
しかし九州説を唱える学者もこのまま黙ってはいませんでした。
それが九州説を推す歴史学者の榎一雄東京大学教授が提唱した「放射説」です。
放射説というのは、邪馬台国の道のりにおける「伊都国」以降の地名と距離が、道のりの連続として書かれているわけではなく、「伊都国」を中心に放射状にそれぞれの土地との距離が書かれているだけだと解釈するものです。(上図を参考にすると意味がわかると思います)
従来の邪馬台国九州説論者は、邪馬台国への道のりとして記されている史料の日数における矛盾を、「書き間違え」や「伝聞なのでいい加減な数値だった」と説明しており、「史料重視といいながら恣意的に解釈している」という批判を浴びることがありました。
それに対して榎は「伊都国より先の行程は放射状に書かれているので、邪馬台国は伊都国から水行10日陸行1月の場所にある」と解釈し、日数の矛盾について整合性を取ろうとしたのです。
この放射説も恣意的であると批判されることはあったものの、この説明により九州説は史料面においては優位に立つことができました。
また1989年には佐賀県の吉野ケ里町の吉野ケ里遺跡にて大規模な環濠集落が発見されており、遺跡面でも九州説を補強する材料が見つかりました。
吉野ケ里遺跡を邪馬台国論争に組み込もうとする動きもあり、中には吉野ケ里遺跡が邪馬台国なのではないかと主張する論者もいます。
またそうでなくても吉野ケ里遺跡が伊都国に関するものなのではないかという声も上がっています。
というのも従来の邪馬台国論争では近畿説・九州説ともに音の一致などから伊都国を現在の福岡県糸島市と比定している論者が多いですが、伊都国は末盧国(現在の佐賀県唐津市)から北東の位置にあり、魏志倭人伝の東南の記述とは食い違っています。
この食い違いに対して多くの近畿説論者は「当時は測量技術が未熟だったので、魏志倭人伝の方角は時計回りに90度ズレている」と主張し、むしろ以後の行程で南ではなく東へと向かうことを正当化する材料として使っています。
それに対して九州説論者は「書き間違え」や「一旦東南に行くので問題ない」と説明しており、先述した日数の矛盾の時と同じように「史料重視といいながら恣意的に解釈している」という批判を浴びることもありました。
しかし吉野ケ里遺跡を伊都国と比定した場合、吉野ケ里遺跡は末盧国から東南の方角にあるので、魏志倭人伝の記述と矛盾しません。
また従来の九州説論者は南に海がない福岡近辺に伊都国や不弥国を比定していたので、「南方への水行」の解釈に苦しみました。
しかし吉野ケ里遺跡の南方には有明海があり、記述に矛盾することなく南方への水行を行うことが出来ます。
吉野ケ里遺跡が当時のどの都であるのか? 発掘が今後進みその問題が明らかになれば、江戸から続く長い邪馬台国論争も大きく動くことになるでしょう。