ある日を境に周りの人々が変わってしまった男性
ある58歳の男性(シャラ氏)の世界は、3年前を境に激変しました。
周りにいる全ての人間の顔が、まるで物語に登場する悪魔のように大きく歪んで見えるようになってしまったのです。
「ある朝目覚めると、世界中の誰もがホラー映画の生き物のように見えたらと想像してみてください」
シャラ氏は当時の戸惑いについて、そう述べています。
シャラ氏に現れた症状は「相貌変形視(PMO:そうぼうへんけいし)」と呼ばれる非常に珍しい神経学的視覚障害であり、これまで報告されたケースは80件あまりしかありません。
同じ顔にかんする認識障害として、人の顔を覚えられない「相貌失認」が知られていますが、相貌変形視とは異なる病気であると考えられています。
この症状を発症した患者では、相貌失認とは違って顔そのものは正確に認識でき、顔だけで誰かを判断したり、喜怒哀楽などの表情を読み取ることも可能です。
また人間の顔以外の物体(建物や車など)は、全て歪みなく正常に認識することが可能です。
しかし人の顔に限定して、ある種の幻覚が起こるようになり、顔の形・肌の質感・目や鼻などのパーツの位置・色などが歪んで見えるようになってしまいます。
これまで報告された半数のケースでは歪みが顔全体に及び、残りの半分のケースでは歪みは顔の左右のどちらか半分に限られています。
幸いなことに、相貌変形視になったほとんどの人は、数日から数週間で回復することが知られています。
一方で、一部の人では病状が何年も続くことがありました。
残念なことにシャラ氏は後者であり3年前(31カ月前)のある日を境に、人々の顔全体が歪んでみえるようになってしまい、現在でも症状は続いています。
ただ顔の歪み方のパターンは誰でも同じであるため、シャラ氏は個人を識別することはでき、表情も区別可能でした。
またシャラ氏の症状にはもう1つ興味深い特徴がありました。
シャラ氏の場合、顔が歪んでみえるのは人間の顔を直接目で見た場合のみであり、写真や映像など二次元的な媒体に映る顔は、相貌変形視を発症する前と同じ、歪みがないものだったのです。
今回、ダートマス大学の研究者たちは、このシャラ氏の特性に着目しました。
これまで相貌変形視にかんしていくつかの研究がなされてきましたが、患者視点で顔がどのように歪んでいるかを詳細に知ることは困難でした。
しかしシャラ氏の場合、二次元的な媒体に移った顔は正常に識別できるという特性があるため、同じ人を目の前にして写真と比較することで、顔のどの部分がどんな比率で歪むかを、シャラ氏視点から正確に知ることが可能になると考えたからです。
このアイディアは今回の研究にそのまま取り入れられました。
調査にあたってまず、男女の被験者の写真が撮影され、シャラ氏の目の前に被験者たちが写真と一緒に並べて提示されました。
そしてシャラ氏に顔のどの部分がどの程度歪んでいるかをリアルタイムで教えてもらい、得られた結果をコンピューターグラフィックスで表示しました。
結果、シャラ氏の視点からは上の図のように、被験者たちの顔が歪んでいることが示されました。
これまで相貌変形視の患者たちの多くが、顔の歪みの原因が、統合失調症にみられる幻覚と診断され、誤って統合失調症の薬が投与されていました。
また相貌変形視を患っている人は、顔の歪みが精神疾患のせいだと他人に思われるのを恐れた、医師に話さないことも珍しくありませでした。
研究者たちは今回の成果が知れ渡れば、症状の実態把握が進むだけでなく、相貌変形視の患者たちに適切な病気に関する知識やケアができるようになると述べています。
次のページでは「顔に限定する歪み」が起こる仕組みを、症例と共にみていきたいと思います。
脳のどこにどんな変化が起きたら「顔に限定した歪み」が現れるのでしょうか?