秀吉は激怒、伴天連追放令の遠因に
しかしこういった奴隷売買は戦乱期だから許されていたという面もあり、豊臣秀吉が天下統一に向けて本格的に動き出すと、ポルガル人の奴隷輸出にも厳しい視線が向けられるようになります。
1587年、秀吉はイエズス会に「何故にポルトガル人は、日本人を買って奴隷として船で連れ行くのだ」と詰問状を送りました。
また同年に秀吉は奴隷売買を禁止する法律を出し、ポルトガル人の奴隷売買をやめさせようとしたのです。
こうしたこともあって、1589年、ヴァリニャーノは日本人奴隷を売買したポルトガル人を教会から破門することを決定しました。
しかしこうした動きに対してポルトガル人サイドから反発がなかったわけではありません。
例えば先述したゴアの当局は「日本人奴隷を開放すれば、敵と結託して反乱を起こすに違いない。奴隷解放の噂が入れば、すぐにでも動き出すので、我々は警戒しなければならない」と懸念を表しており、好戦的な日本人奴隷の刃が自分たちに向くことを非常に恐れていました。
江戸時代に行なわれた鎖国に対しては様々な議論がありますが、こういった話を聞くと鎖国に踏み切ったのも致し方ないのではないかとさえ感じます。