女は妾、男はボディーガード
それでは日本から輸出された奴隷は、どこに行ったのでしょうか。
当時の航海技術では長距離の航海は難しかったこともあり、日本から輸出された奴隷は当時ポルトガル人の居留地があったマカオ(現在の中華人民共和国マカオ特別行政区)に送られました。
奴隷として売られた女性の多くは、マカオにて妾として生活していたのです。
その中にはマカオのポルトガル人と結婚するものもおり、ポルトガル人との間に子をなすこともよく見られました。
中にはポルトガル人が所有している黒人奴隷やマレー人奴隷に妾として売られる日本人女性もおり、奴隷の奴隷となっているものもいたのです。
一方男性奴隷はポルトガルの植民地にて、ボディーガードや兵士として生活していました。
ゴア(現在のインド)議事会がポルトガル国王にあてた手紙には、「ポルトガル人の人手が足りないので、日本人奴隷に主人を守るように努めさせている。戦の時、一人のポルトガル人が5~6人のマスケット銃を持つ若い日本人奴隷を率いたとしても、彼らは勇ましいので善戦できる」と書かれており、その能力の高さが買われていたことが窺えます。
またマラッカ(現在のマレーシア)には日本人奴隷にて構成された総督を守るための警備部隊があり、その中にはポルトガル人に従って東南アジアを転戦する日本人奴隷も数多くいました。
さらにマカオにも同様の立場の男性奴隷はおり、彼らは当時ポルトガルを脅かしていたオランダ人からマカオを守るために重宝されていたのです。
しかしそういった日本人男性奴隷は、夜になるとしばしば通行人を襲撃し略奪したり、はたまた奴隷同士で格闘しあったりするなどしていました。
それによりマカオの治安は悪化し、日本人奴隷に対する批判が相次いだのです。
そのため1586年、「奴隷は主人に同行する場合を除いて武器を持ってはいけない」という法律が発令されました。
また「奴隷がポルトガル人を殺したら、右腕を切断して10年間軍艦の中で強制労働させる」という法律も発令されました。
しかし効果はあまりなく、マカオの治安が回復することはなかったようです。