九州で奴隷を集めていたポルトガル商人
当時の日本は戦乱の時代ということもあって荒れに荒れており、親が子どもを売って資金調達と口減らしを同時に達成するということも多くあったのです。
また城が攻め落とされた後、その城にいた女性や子どもを戦利品として手に入れるということも多々ありました。
さらにポルトガル商人宣教師の報告にも「島津家の軍勢が1586年に豊後(現在の大分県)に攻めてきて、女性や子どもを中心に多くの人を拉致し、その多くが九州各地に売られた」とあります。
こうした事実に対して心を痛めた人も少なくなく、イエズス会の日本教団の巡閲使アレッサンドロ・ヴァリニャーノは「お金のために人を牛馬のように売買する日本人の行為に怒りを覚えた」とさえ言っています。
ただ当時奴隷売買を行っていたのは日本だけの話ではなく、欧米でも奴隷売買は行われており、ポルトガル商人などは日本の身売りされた子供や拉致された女性などを安価で購入し輸出していました。
こうしたポルトガル商人によって輸出された日本人奴隷は5万人とも言われており、いかに多く売られていたかが窺えます。
また先述したヴァリニャーノも「日本人奴隷にとって、ポルトガル人に売られるほうが優しく扱われる上、キリスト教の教義を授けてもらえる分まだマシだ」と語っており、日本人同士の奴隷売買は否定しておきながらポルトガル人による日本人奴隷の売買は肯定的に評価していたのです。
さらにキリシタン大名として知られる大村純忠に至ってはキリスト教への改宗を拒否した領民たちを奴隷としてポルトガル商人に売り渡しましたが、そのことについてポルトガル宣教師から咎められることはなかったのです。
こういった状況に対してイエズス会は「キリスト教の布教の妨げになる」という理由でポルトガル商人による奴隷売買をやめさせようとしていており、ポルトガル本国に働きかけていました。
その甲斐あって、1571年にポルトガル国王は日本人奴隷の取引の禁止をする命令を出したのです。しかし日本とポルトガルはかなりの距離があったこともあってこの命令の効果はあまりなく、引き続きポルトガル商人による奴隷売買は行われました。
また当時の日本人の奴隷売買熱は強く、ポルトガル商人からして「日本人の奴隷売買の熱情にこたえて取引に応じざるを得ない」と言われるほどであり、日本人も積極的に奴隷を売っていました。