ゴミ問題に試行錯誤を繰り返していた江戸幕府
江戸時代の都市は、リサイクルシステムが整備されていた模範的な都市とされています。
しかし実際にその体制が確立されるまでには、多くの課題がありました。江戸時代の初期、ゴミは「会所地(かいしょち)」と呼ばれている空き地に捨てられていました。
しかし住民が全員ここにしかゴミを捨てていなかったわけではなく、中には野焼きで焼却処理したり、はたまた川や堀に勝手に捨てて処理したりする人もいたのです。
しかし当時は消火技術が未発達で建物のほとんどが木造であり、それゆえ野焼きによってしばしば大規模な火災が起きました。
また不法投棄によって堀や川が詰まり、悪臭の発生や船の航行に支障をきたすこともあったのです。
これにより、幕府はごみの処理を厳しく取り締まる必要に迫られ、取締役である「芥改役(あくたあらためやく)」を設置して不法投棄を監視させるようになりました。
また会所地も近隣住民が悪臭や害虫に悩まされているという問題から、1649年にはゴミの会所地への投棄が禁止されるようになりました。
代わりに指定されたゴミ処理場が設けられ、そこでゴミが処理されるようになったのです。
ゴミ処理場には、現在の江東区周辺の低湿地が利用され、それにより江戸時代のゴミ処理システムが確立されました。
江戸の住民が自らゴミ処理場まで運ぶことは難しかったため、専門のゴミ回収業者が登場し、船を使ってごみを処分場へ運搬していました。
このシステムは、現在の清掃業務に近く、当時としては非常に先進的であったのです。
1662年には、「浮芥定浚組合(うきあくたじょうざらいくみあい)」が組織され、ごみの運搬と処理を効率的に行いました。
また、ごみの中からリサイクル可能なものは選別され、農家や鍛冶屋などに売却される仕組みもあったのです。
現在のごみ収集は税金で賄われているものの、当時は排出者負担の原則で運営されており、家賃に処理費用が含まれていました。こうしたシステムは、リサイクル社会を形成する基盤となり、現代のごみ処理にも通じるものがあります。