外食文化が花開いた化政時代
このように江戸時代中期にかけては外食文化が花開いていたものの、松平定信が行った質素倹約を是とする寛政の改革により、その華やかさは一時的にしぼみました。
しかし、定信が権力の座を降りると、食の世界は再び活気を取り戻します。
化政期(1804年 – 1830年)に入ると、江戸の町には数えきれないほどの飲食店が立ち並び、五歩歩けば飲食店、十歩歩けば別の店に出くわすといった状況になりました。
当時、単なる茶屋だけでなく、豪華な料理屋が次々と登場したのです。
高級な魚介類や珍味が食卓を彩り、江戸市中の飲食業が乱立していったのは、この時代ならではの現象でした。
その中でも特に名を馳せたのが、料理屋「八百善」です。
もともとは庶民的な仕出し屋だったものの、この時期に高級料理屋として急成長を遂げました。
八百善を代表する逸話としては、ある客が八百善で極上の茶漬けを所望した際、半日も待たされた挙句、1両2分(現在の価値で大体20万円)という高額な代金を支払う羽目になったというものが知られています。
ちなみにこの高級茶漬けの値段が高騰した理由の一つは、当時、煎茶の銘柄や水質に対するこだわりが強かったからとされています。
また八百善では野菜の促成栽培を行っていた農家と提携することにより、春先に瓜や茄子といった夏野菜を提供することを可能にしていました。
こうした季節外れの野菜を出すことは現在では珍しいことではないものの、当時はかなり珍しいことであり、それゆえ人気を博していたのです。
しかし、このような豪華さや高級化は一時的なもので、やがて化政期の終わりには食文化の変化が見られるようになります。
かつての名高い料理屋であっても、客は次第に高級な料理に飽き、名声にこだわらなくなっていきました。
それでも一部の高級料理店は残り、その中には現在でも営業しているものもあります。