命の一時停止機能を復活させる
これまでの研究により100種を超える動物に、胚の成長を一時停止させる胚休眠の仕組みがあることが知られており、長い種では数か月に及ぶとされています。
母体の状態や周囲の環境が適切な状態になるまで出産を遅らせることができれば、厳しい自然界を生き抜き、子孫を残せる可能性が高まるからです。
哺乳類ではマウスやクマ、アザラシやカンガルーなどが胚休眠の能力を持つとされています。
一方で、人間やヒツジなどの動物は胚休眠能力がないと考えられています。
しかし人間の胚休眠能力が本当に失われているのか、眠ったままであるかは不明でした。
というのも、胚休眠能力がないはずのヒツジの胚を、休眠を誘発したマウスの子宮に入れてみたところ、ヒツジの胚もつられて胚休眠状態に移行したことが確認されたからです。
また過去に行われた複数の研究により胚休眠は「mTORシグナル伝達経路」と呼ばれる仕組みがブロックされたときに起こることが報告されていました。
この仕組みは、ある意味で、音楽のドラムのような役割を担っており、ここの伝達経路からの信号が正しく送り続けられないと、胚発生が停止してしまいます。
哺乳類において胚休眠が起こるのは、胚が胚盤胞と呼ばれる受精卵が球形を脱し始める時期であることも知られています。
胚休眠が起きた胚盤胞は子宮の壁へ付着する能力が低下し、子宮内部で浮いた状態に保たれます。
幸運なことに、人工的に合成されたブラストイドもまた、胚盤胞と呼ばれる時期と同じ形状をしていました。
そこでマックスプランク研究所の研究者たちは、ヒト幹細胞ベースのブラストイドを用意し「mTORシグナル伝達経路」をブロックしてみることにしました。
もし人間の胚休眠能力がヒツジと同じく眠ったままであるならば、この方法で胚発生を一時停止できる可能性があったからです。
すると、ブラストイドの成長が最大で8日間、一時停止状態になることが判明。
(※また細胞レベルの分析では、「mTORシグナル伝達経路」のブロックは最大で18日間に及び発生停止を続けさせる効果があることがわかりました。)
ブロックを解除したところ、一時停止も解除され、再び胚発生プロセスが開始されることも確認できました。
加えて逆に「mTORシグナル伝達経路」を活性化させてみたところ、ブラストイドの発生が加速する現象もみられました。
この結果から研究者たちは、人間の胚休眠能力はヒツジと同じく眠った状態で保存されていると結論しました。
人間もかつてはマウスのように胚休眠能力を持っていたと考えられますが、進化の過程で次第に行わなくなっていったと考えられます。
ただ胚休眠を起こす仕組みだけは、残っていました。
例えるならば、「胚休眠を起こす一時停止ボタンを押す能力は失っても、一時停止ボタンそのものは残っていた」と言えるでしょう。
研究者たちは胚休眠システムを理解することは生殖医療に影響を及ぼすと述べています。
たとえばより発育速度が速いほうが体外受精の成功率を高めることが知られており、「mTORシグナル伝達経路」の活性を高めることでこれが達成できるかもしれません。
もしかしたら未来の不妊治療の現場では、mTORシグナル伝達経路活性化がオプションとして実装されているかもしれませんね。