なかなかうまくいかなった酒場の追放
このようなこともあり、19世紀の半ばより禁酒法の制定を求める動きが起こるようになりました。
禁酒活動家たちが攻撃の対象としたのは酒場であり、彼らは様々な方法で酒場を排除しようとしたのです。
たとえば活動家は「文化的慈善活動」として公園や博物館、図書館、美術館など「健全な娯楽施設」を増やして、酒場の代替としようとしたものの、残念ながら都市住民の心を掴むには至りませんでした。
さらに、酒場を街の一角に追いやる道徳的隔離策なども講じられたものの、これまた皮肉なことに、「悪」を認める形となり効果は限定的でした。
それでもなお、自治体ごとに酒場の閉鎖を進める「ローカル・オプション」が最終的にはうまくいきます。
そうして酒場の名はキャバレーやカフェへと移り変わり、その空間は、売春婦が締め出され、女性連れでも安心して訪れる場所へと変貌したのです。
この動きは全米へと広がっていき、遂に1920年には憲法改定により、アメリカ全土で禁酒法が施行されることとなったのです。