共時性――心と物理が交差する“意味のつながり”
二人の議論からまず生まれたのが「共時性(synchronicity)」という概念でした。
これは、時間や場所の因果関係では説明できないのに、意味によって結び付く出来事の一致を指します。
たとえば何年も会っていない友人を夢に見た翌日に、その友人に偶然再会する、といった現象があった場合、これを本当にただの偶然と考えるのではなく、因果関係はないとしても、夢と現実の間に何らかのつながりが存在すると解釈する考え方です。
パウリもこの考えに共鳴し、二人は因果関係がなくとも『意味で繋がっている現象』を共時性と呼んで共同で探究していったのです。(ここでいう「意味」とは、本人が「重要なことだ」「意味のあることだ」と感じる感覚を指します)
1952 年にユングが発表した論文を、パウリが何度も読み直し、論理のほころびを指摘しながら整えたことで、概念が形になりました。
そして二人の議論したもう一つの概念が、ラテン語で「ひとつの世界」を意味する「ウーヌス・ムンドゥス(Unus Mundus)」です。
これは意識(主観)と物質(客観)が結びついた、私たちの世界より上位にある次元の領域を指しています。物質と意識はそこからの投影であり、互いに因果関係がないように見えても繋がっていると考えたのです。
先程の共時性が起きるのも、物質と意識がこのウーヌス・ムンドゥスの領域で繋がっているからだということになります。
この考えはユングが提唱したものですが、パウリはこの考えが量子力学の「観測問題」や「量子もつれ(entanglement)」につながるのではないかと考えました。
量子力学には観測という主観的行為が、物理的な現実を確定させるという、直観に反した奇妙な性質があります。
「観測問題」は一般にはシュレーディンガーの猫などの話で広まっている考え方で、観測するまで物事の状態は確定しない(逆に言えば観測で状態が確定する)という問題です。
「量子もつれ」とは、2つの粒子がもつれた状態にあるとき、一方の粒子の状態を観測すると、もう一方の粒子の状態も即座に確定するというものです。重要なのは、この2つの粒子が、空間的に非常に遠く離れていても、片方を観測することで同時に状態が決まる、という点です。
アインシュタインはこの奇妙な現象に対して、「不気味な相互作用(spooky action at a distance)」だと批判しました。
これは、自然界の出来事が空間的な接触や時間的な順序によってつながるという従来の因果的理解を、根底から揺るがすものです。
こう聞くと、先程の共時性の話となにか似ている気がします。パウリも同様に、この量子の非局所的な振る舞いが、意識と現実が繋がり合う共時性の構造と似ていると考えたのです。
もっとも、こうした理論は実験で確かめる方法がなく、科学コミュニティでは「検証不可能=科学ではない」とされています。学術誌でも疑似科学の範囲と見なされるのが現状です。
それでも量子論の不可解さに直感で迫ったパウリの姿勢や、学問の枠を越えて議論した歴史的意義は評価されています。現代の脳科学や複雑系研究では「全体のネットワークが非線形(連続していない)に働くことで意味が生まれる」という視点が登場しており、パウリとユングの対話を再び参照する研究者もいます。
パウリとユングの協働は、厳密な科学の枠には収まりませんでした。それでも、量子力学の創始者が「心」の世界に飛び込み、心理学者とともに物質と意識の橋を架けようとした事実は、科学史のなかできわめてユニークです。
パウリは厳密な証拠や根拠が求められる物理の世界で、非常に緻密な理論を作り上げた学者でした。だからこそ、なんの証拠がなくても自身の直感で世界を語れるユングとの対話を楽しんでいたのかもしれません。
共時性やウーヌス・ムンドゥスはいまも証明を欠く概念ですが、量子論の奇妙さと人間の主観体験を並べて考えるきっかけを与えてくれます。
意外と知られていないこの歴史の一幕は、科学と哲学の境界を行き来する面白さを、私たちに改めて教えてくれるのです。
似たもの同士はひかれあうというやつですね。
どちらもその分野における天才ですから。
分野違ったって天才は天才ですし、お互いもそれはすぐに分かりますからね。
それこそ物理の世界では違う世界扱ってる理論を統一しようっていう動きがあるように、学問だって最終的には分野を超えて統一されるでしょうから、それの先駆者であったということでしょう。
どちらも生まれるのがちょっと早すぎた感がありますね。
パウリとユングの出会いも、我々から見るとまさに共時性ということか
『ケプラーの思想に与えた元型的イデアの影響』
物理現象を理解をする。というのは、人間の脳が理解するのだから、理解は脳の生理現象。だから、その生理現象の範囲でしか物理現象を理解することは出来ない。ということは、物理現象の理解を突き詰めるというのは、脳の生理現象を突き詰めることにも繋がるので、全く違う分野なのに重なってしまうのでは・・?
少なくとも仮説という意味で発表ができるのは悪いことではないと思う。
検証不可能なものをどう扱うか、というのを、世の中の99%の凡人が真面目に扱ってるのをみたことがない(思考停止)という状況をなんとかしない限りこういうブログも含めて無意味な発信に過ぎないものだと思う。
(「天才の肩書」を持つ人の考えることは凡人は無条件に「すごいもの」として思考停止するし、「認められていない天才の候補」に至っては、「アタマのおかしいやつ」として話も聞かない。
こういう社会構図である限り、「異質な考えを持つ人たち」か批判されたり虐げられたりする状況は何も変わらんよ。