なぜ量子物理学者が、無意識の研究者に出会ったのか?
ヴォルフガング・パウリ(Wolfgang Pauli)は、量子力学の誕生において欠かすことの出来ない重要人物であり、20世紀初頭の理論物理学を牽引した天才の一人です。
かなり早熟の天才だったパウリは、学生時代には授業が退屈だからと机の下に隠して相対性理論の論文を読んでいたと言われており、21歳のとき書いた相対性理論の解説には、アインシュタイン本人も称賛を送ったといいます。
そして20代で排他原理を打ち立て、原子の構造と化学結合の謎を一気に説明し、後にノーベル物理学賞を受賞します。
しかし、その輝かしい業績の裏で、パウリは私生活ではかなり精神を病んでいました。
母の自殺、短期間での離婚、それに非常に難解な量子力学の世界。
パウリのような天才にも、物理学の世界から新たに広がった量子力学はかなり難解であり、苦労することが多かったようです。彼は「ともかく物理学は難しすぎて、自分が物理学など何も知らない喜劇役者だったらよかったのにと思う」という言葉も残しています。
さらに、仲間の物理学者ラルフ・クローニヒ(Ralph Kronig)が示した電子が実は自転しているという「電子スピン(electron spin)」のアイデアを相談された際、「電子はそんなふうになっていない」とかなり冷淡な態度で退けてしまったことも、パウリに深い後悔をもたらしました。
ラルフは天才のパウリに否定されたことで、電子スピン理論の発表を諦めてしまうのですが、そのすぐ翌年に、そっくりなアイデアを、ウーレンベック(Uhlenbeck)とゴーズミット(Goudsmit)という二人の学者が発表し、あっさり世間に受け入れられ、高く評価されてしまうのです。
そのためラルフはかなりパウリを恨んだといいます。
こうした出来事が重なってかなり精神的に参っていたパウリは、1932年、友人たちのすすめで心理分析を受けることにしました。
そこで彼が尋ねたのが、チューリッヒ大学の心理学者カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung)だったのです。
そこでパウリは「自分の無意識に理性が侵されている」と語り、いくつもの夢の記録を報告します。このパウリの夢の内容はユング自身を驚かせるものでした。
夢に現れる象徴の数々――たとえば「4つの視点を持つ回転する鏡」や「幾何学的に分割された円盤」、「数秘的な構造を持つ対称図形」などは、ユングが“心の構造”を探るために用いる「マンダラ(mandala)」という象徴に非常に近いものだったのです。
しかしそれだけではありません。ユングがこうした夢の内容を分析した説明は、「二重性」「鏡像」「同時に成立しない視点の統一」などを示しており、それはニールス・ボーアが提唱した相補性のアイデアを想起されるものだとパウリは感じたのです。
相補性というのは後にコペンハーゲン解釈と呼ばれることになる理論の元になるもので、つまりは「観測するまで物事の状態は確定しない」という考え方に通ずるものです。
このため、パウリはユングの分析に自分の無意識下の物理的原理が反映されていると驚き、ユングもまた、パウリが無意識の深層と強く結びついている特異な被験者であると興味を抱きます。
パウリのように、科学の最先端を扱う理性の人が、まるで物理学の抽象概念そのものを象徴するような夢を自らの内面から生み出している――これはユングにとって極めて興味深いことだったのです。
やがてパウリは1000を超える夢を記録し、ユングとともにそれを分析していくことになります。
この分析を通じて二人がたどり着くのが、「心」と「物質」の世界をつなぐ共通の基盤が存在するのではないか、という仮説でした。
そしてそれは「共時性(synchronicity)」という理論へと結実していきます。