「普通に見せる」という無意識の努力——カモフラージュ行動とは
ASDの症状に男女差がほとんど見られない幼児期に対し、成長するにつれて女性のASDだけが“見えにくく”なる理由として、気になるのが「カモフラージュ行動(camouflaging)」です。
この言葉は、ASDの人が周囲に「普通に見せる」ために、症状を隠したり、振る舞いを修正したりする行動を指します。
2017年、ロンドン大学とケンブリッジ大学の研究チームが発表した論文(Hull et al., 2017)では、特にASDを持つ女性がこのカモフラージュ行動を頻繁に行っていることが明らかにされました。
研究では、成人のASD当事者たちへのインタビューを通して、彼らがどのように社会に適応しようとしてきたかが詳しく調査されました。その結果、多くの人が日常的に以下のような行動を取っていたことが報告されています。
たとえば、視線を合わせるのが苦手な人は、相手の眉間や鼻筋を見ることで“目を合わせているように見せる”技術を身につけています。ある女性のASD当事者は、「本当は人の目をじっと見るのが怖い。でも“ちゃんと目を見ろ”と言われてきたので、眉間のあたりを見るようにしてきた」と語っています。
また、会話が始まる前に「どんな話題が来そうか」「どのように返せば自然か」を想定し、会話の内容を台本のようにあらかじめ準備しておく人もいます。Hullらの研究では、「毎朝バス停で顔を合わせるママ友に、今日は『寒いですね』って言おうと前日から決めていた」という声も紹介されています。
他人の感情を自然に理解することが難しいため、「悲しいときはこういう顔をする」「驚いたらこう反応する」といった社会的ルールを意識的に学び、状況に合わせてそれを模倣する人も少なくありません。ある当事者は、「表情はテレビドラマから学んだ。嬉しいときの笑顔、悲しいときの沈んだ顔、それを思い出して再現している」と述べています。
さらに2020年に同じ研究チームが発表したレビュー論文では、これらの行動が「マスキング(masking)」「補償(compensation)」「模倣(assimilation)」という3つのカテゴリに分類され、非常に戦略的かつ継続的に行われていることが示されました。
ASDの人は、人との距離感がつかめなかったり、会話のタイミングがうまく読めなかったり、表情の意味が理解できなかったりといった悩みを日常的に抱えています。しかし、それは知能の低さを意味するわけではなく、知的能力は十分に高い人がほとんどです。
そのため、ASDの人の中にはそれを外部に悟られないために、普通にコミュニケーションが取れているよう“演じる”ことができる人たちも多いのです。

このような努力は、一見「社会適応力が高い」と受け取られがちです。
しかし、実際には本人に大きな負担を強いる行動でもあり、常に意識して演技を続けなければならないことから、次第に自分が何者であるのか分からなくなる「自己喪失感」や、慢性的な疲労感、不安、うつといった二次的なメンタルヘルスの問題につながることが報告されています。
では、なぜこのカモフラージュ行動は女性に多く見られるのでしょうか?
その背景には、文化的・社会的なジェンダー規範の影響があると考えられています。特に女の子は、幼い頃から「相手の気持ちを考えて行動すること」や「周囲に気を配ること」が大切だと教えられる傾向があります。そうした期待が、幼い頃から無意識に刷り込まれることで、ASDの傾向を持つ女の子も周囲に合わせようと努力を始めるのです。
また、女児は言語発達や模倣能力が男児より早い傾向があることも、カモフラージュをしやすくする一因と考えられています。つまり、社会的に“普通”を装うための手段を早くから身につけやすいのです。
こうして、“普通に見せる力”を持ったASDの女性は、ASDと診断されにくく、支援を受けにくいという大きなリスクを抱えることになります。
ただ、ここまで見てきたカモフラージュ行動は、誰もが多かれ少なかれ集団生活の中で実行しているものであり、「対人関係の気疲れ」に似た印象を受けます。
では、多くの人が感じる“コミュニケーション疲れ”と、ASDのカモフラージュ行動には、どのような違いがあるのでしょうか?
ここからは、その類似点と決定的な違い、そして「ASD的特性」は誰もが少しずつ持ちうる可能性について考えていきます。