環境が“選別”して世界を作る仕組み

量子ダーウィニズムを理解する上で大切な鍵となる現象は、「デコヒーレンス」と呼ばれています。
デコヒーレンスとは、量子の世界にある「曖昧さ」が、環境との相互作用によって失われる現象のことです。
私たちが日常で目にする物質は、いつも確かな場所に存在し、粒子が同時に二つの場所にあるような奇妙な振る舞いを見せません。
しかし量子の世界では、粒子は「ここにいる状態」と「あそこにいる状態」を同時に持つ「重ね合わせ状態」を取ることができます。
では、なぜこのような不思議な重ね合わせが私たちの目には見えないのでしょうか。
その理由こそがデコヒーレンス(重ね合わせの破壊)です。
粒子は常に空気中の分子や壁、光などの周囲環境と絶え間なく相互作用しています。
この環境との接触によって、粒子が持っていた「複数の状態を同時に取る」という性質は急速に失われてしまいます。
実際には、粒子の状態を示す情報が粒子自身だけでなく環境のさまざまな要素にも拡散し、「ここにいる」や「あそこにいる」という安定した状態だけが環境に大量に記録されるようになります。
仕組みをもう少し詳しく見ると、粒子が光子や空気の分子などと相互作用すると、その粒子の状態情報が環境側へも移ります。
環境の各要素もさらに別の環境と接触し、情報を連鎖的にコピーしていきます。
こうして最初に粒子が持っていた情報は環境から環境へと伝わり、広く分散してしまいます。
結果として量子世界にあった本来の重ね合わせ情報は、水滴が海に落ちて広がるように環境へ溶け込み、私たちには「消えてしまった」ように見えるのです。
ただし環境に溶け込んだ情報がすべて等しくコピーされるわけではありません。
実際には環境と安定に相互作用できる、いわば「壊れにくい状態」だけが大量にコピーされて広まります。
ズーレック氏はこの安定した状態を「ポインター状態(pointer state)」と名付けました。
ポインター状態は環境との相互作用でほとんど崩れないため、環境中に無数のコピーを作ることができます。
まさに環境が選び出した「生き残り」の状態と言えるでしょう。
一方、環境に弱く不安定な量子状態は相互作用によってすぐに破壊され、情報のコピーもほとんど残りません。
つまり環境が「ふるい」にかけることで、安定なポインター状態だけが大量に環境中へコピーされていくのです。
この情報コピーは非常に短い時間で劇的に進みます。
たとえばズーレック氏らが検討した「量子ブラウン運動モデル」では、一つの粒子の情報が環境内の無数の粒子に瞬時にコピーされる様子が計算されました。
その時間は驚くほど短く、空気中の微小な塵の粒が重ね合わせ状態になったとしても、およそ10⁻³¹秒(1秒の10の31乗分の1)で重ね合わせが破壊されると見積もられています。
それほどまでに環境との接触は強力で、量子世界の不思議な性質はすぐに封じ込められてしまうのです。
ズーレック氏はこうした過程を「環境によるスーパーセレクション(einselection)」と呼びました。
この概念は量子力学で長らく議論されてきた「測定問題」に新しい視点を与えます。
従来の解釈では、観測者が測定した瞬間に「波動関数が収縮し」、量子状態が一つに決まると考えられてきました。
しかし量子ダーウィニズムによれば、(人間による意識的な)特別な「測定の瞬間」を持ち出さなくても、環境との相互作用だけで安定な結果が自然に選ばれていることになります。
観測者は環境に刻まれた大量の情報コピーを「後から覗き見ている」に過ぎないのです。
この新しい視点によって、量子の世界と私たちの日常世界との間にあった深い謎に光が差しました。
つまり量子の曖昧な世界から古典的現実が生まれる仕組みは、「環境が安定な状態を選びコピーを作る」というプロセスによってごく自然に実現しているのです。
環境が「量子の曖昧さを取り除く隠れた観察者」として働いていると考えることで、私たちの目の前に広がる確かな現実の成立過程をより直感的に理解できるようになりました。