観測者はもう脇役:環境が“現実メーカー”になる未来

量子ダーウィニズムという考え方は、単なる物理理論の枠を超えて、私たちの現実の捉え方に深く関わる哲学的なアイデアをもたらしています。
具体的にどういうことか、ゆっくり丁寧に見ていきましょう。
私たちは普段、物がある場所にはっきりと存在することや、出来事が確かな状態で起きることを当然と考えています。
ところが量子の世界では、ひとつの粒子が複数の場所に「同時に存在する」かのような不思議な状態を取ることがあります。
このような状態を「重ね合わせ」と呼びますが、普通の生活の中でこのような現象に出くわすことはありませんよね。
それはなぜでしょうか。
量子ダーウィニズムは、その疑問への一つの答えを示しています。
この理論では、量子の状態が観測されたときに「消えてしまった」と考えるのではなく、「私たちが観測できない場所に隠れてしまった」と捉えます。
つまり量子の多様な可能性は消え去ったわけではなく、環境に溶け込んで広がり、私たちには見えなくなっているだけだということです。
例えて言えば、コーヒーにミルクを注ぐと最初はくっきりとした白い渦巻きができますが、すぐに全体に広がって目に見えなくなります。
それと同じように、量子の状態も環境という広大な海の中に散りばめられ、元の姿を確認できなくなります。
この「量子の曖昧な情報が環境に散らばり、目に見えなくなる現象」を専門的には「デコヒーレンス」と呼びます。
ミルクがコーヒーに溶け込む様子をイメージすれば、この現象を身近に感じられるでしょう。
ここで面白いのは、私たちが普段経験している「現実」と呼ぶものが、このデコヒーレンスを通じて環境が自然に「選び出した結果」だという点です。
実は私たちは、量子の世界に存在するすべての可能性を見ているわけではありません。
その中から特定の安定した状態だけが環境との相互作用を通じて広く伝播し、目に見えるようになります。
つまり「現実」とは、環境が作り出した「量子情報の記録」だと言えるのです。
この発想は、熱力学で知られる物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンが提唱した「エントロピー」の概念にも通じます。
エントロピーとは「見える秩序の陰で見えなくなった微視的な無秩序の量」を表す指標ですが、量子ダーウィニズムの描く世界像もこれに似ています。
量子の多様な状態は環境に拡散し、私たちからは見えなくなっても、その痕跡はエントロピーとして環境内に残ります。
さらにもう一歩踏み込むと、私たちが当たり前と感じる「古典的な現象」も、環境との相互作用によって選び抜かれた量子状態だと考えられます。
生物進化では自然選択によって生物の形質が決まりますが、量子ダーウィニズムになぞらえるなら、私たちが日常で当たり前と思っている古典的な現象(物体がはっきりした位置を持つなど)は、量子の多様な可能性の中で環境との相互作用を生き延びた安定状態が表に現れた結果と考えることができます。
もし環境との相互作用で選ばれる量子状態が違っていたら、私たちが見る現実の様子や起こる現象も違っていた可能性があります。
この意味で、量子ダーウィニズムが示す現象の選択と冗長化は、生物進化における自然選択に通じる考え方だと言えるでしょう。
もっとも、量子ダーウィニズムは「なぜ特定の結果が選ばれるのか」という問いには答えますが、「その結果が具体的にどの値になるか」までは決めてくれません。
例えばシュレーディンガーの猫のパラドックスで言えば、環境が猫の生死という安定な事実を選び出し多くの観測者に共有させる仕組みは説明します。
しかし、その猫が最終的に生きているのか死んでいるのか、といった具体的結果は量子確率によってしか与えられず、量子ダーウィニズム自体はその確率の収束先を規定しません(自然選択では環境に適応した個体が生き残りますが、どの個体が環境に適応できるかは偶然によって左右される面があるのと似ています)。
この点で、量子ダーウィニズムはコペンハーゲン解釈や多世界解釈など既存の量子解釈と矛盾せず共存しうる「枠組み」と言えるでしょう。
実際、多世界解釈(エヴェレット解釈)の立場から見れば、環境に選ばれなかった他の可能性は「世界の別の枝」に存在し続けているとも解釈できますし、量子ダーウィニズムの描写は「なぜ我々は自分のいる世界で客観的な現実を認識できるのか」を説明する補助線にもなります。
量子ダーウィニズムの意義は、量子力学の不思議な振る舞いと古典的現実の間に、一つの連続的なストーリーを提供してくれることです。
「観測者」という特別な存在を持ち出さずとも、環境という当たり前にあるものの作用だけで、量子の曖昧さから古典の明快さへの橋渡しができるかもしれない――その可能性を示した点で、非常に魅力的な理論だと言えます。
まだ発展途中の部分もありますが、実験検証が進めばさらに理解が深まるでしょう。
量子の世界における「ダーウィン的進化」の視点は、私たちの現実観に新たな光を当てつつあります。
量子ダーウィニズムによって描かれるこの世界像は、「自然が自ら観察者となって現実を選び出す」という壮大なものです。
それは、私たち人間の存在を特別視することなく、宇宙そのものが自らの法則と現実を育んできたのだと示唆しているようにも思えます。
今後の研究が、この仮説をさらに洗練し、量子から宇宙まで一貫した世界の理解へとつながることを期待したいです。
参考文献
Environment as a Witness: Selective Proliferation of Information and Emergence of Objectivity in a Quantum Universe — https://arxiv.org/abs/quant-ph/0408125
A Simple Example of “Quantum Darwinism”: Redundant Information Storage in Many-Spin Environments — https://arxiv.org/abs/quant-ph/0408147
Quantum Darwinism — https://www.nature.com/articles/nphys1202
Quantum Darwinism in a Mixed Environment — https://journals.aps.org/prl/abstract/10.1103/PhysRevLett.103.110402
Quantum Darwinism in an Everyday Environment: Huge Redundancy in Scattered Photons — https://doi.org/10.1103/PhysRevLett.105.020404
Non-Markovianity Hinders Quantum Darwinism — https://www.nature.com/articles/srep19607
Revealing the Emergence of Classicality in Nitrogen-Vacancy Centers — https://arxiv.org/abs/1809.10456
Quantum Darwinism and the Spreading of Classical Information in Probabilistic Theories — https://arxiv.org/abs/2012.06559
Quantum Darwinism and the Emergence of Classicality — https://quantum-journal.org/papers/q-2022-01-31-636/
Testing Quantum Darwinism Dependence on Observers’ Resources — https://arxiv.org/abs/2306.14745
Classifying Two-Body Hamiltonians for Quantum Darwinism — https://arxiv.org/abs/2405.00805
Observation of Quantum Darwinism and the Origin of Classicality with Superconducting Circuits — https://arxiv.org/abs/2504.00781
観測しないでも周りの環境が勝手に決めちゃうって方がその分野の人以外にとっては理解しやすい気がしますね。
その環境に向いた物理法則が優先されるってことなんですよね?たぶん。
逆に言うとそうでない物理法則をこの環境下で動かすのはかなり難しいと。
そしてそのクセが分かればこちらで全く新しい物理法則を作り出して産み落とすことも出来ると。