電子が止まってスピンだけが動く――グラフェンが起こした量子革命

電子を動かさずスピン情報だけを流すチップは実現するのか?
答えを出すため研究者たちは、まずグラフェンのすぐ隣に特殊な磁性材料を重ねるというアイデアを試してみました。
用意されたのはCrPS₄(シーアールピーエスフォー)という特殊な結晶で、クロム、リン、硫黄の原子がミルフィーユのように何層にも積み重なってできています。
このCrPS₄は普通の磁石とは違って、ごく薄い原子層の中にだけ磁性を持つ、不思議な性質を持っています。
研究者たちは、この薄くて平らなCrPS₄の上に、原子一枚分の薄さしかないグラフェンを丁寧に重ね合わせて、小さなサンドイッチ構造を作りました。
この「原子サンドイッチ」には、特別な仕掛けがありました。
グラフェン自体は本来磁性を持っていませんが、CrPS₄と接することで、その磁気的な性質がグラフェンの中にしみ込むように伝わり、電子の性質が劇的に変わります。
具体的には、グラフェンの端に沿って特殊な電子状態が現れ、スピンが綺麗に並びながらも、電子自体はそれほど大きく動かないという奇妙な状態が作られます。
これは「量子スピンホール(QSH)効果」と呼ばれるもので、通常は強い外部磁場がなければ実現できない現象でした。
しかし、今回の実験では、この状態を大きな磁石を使わずに、CrPS₄の持つ磁性だけを活用して実現することに初めて成功しました。
さらに、この実験ではもう一つ興味深い現象が見られました。
「異常ホール効果(AH効果)」という、物質が持つ磁性の影響で電気が勝手に横に曲がって流れる不思議な現象も、同時に観測されたのです。
グラフェンはもともと磁石のような性質を持ちませんが、CrPS₄の影響を受けて磁性を持つようになり、この異常ホール効果が室温近くでもはっきりと観測されるほど顕著に現れました。
これにより、グラフェンが磁性を帯び、しかもQSH効果とAH効果という通常は同時に起こりにくい現象が共存するという、珍しい状況が初めて実証されたのです。
また研究チームは、この特殊な「スピン流」が持つ情報伝達能力についても詳しく調べました。
グラフェンを使ったデバイスの中を、このスピン情報がどれくらい安定して伝わるのかを検証したのです。
すると驚くべきことに、数十マイクロメートルという電子の世界では驚異的な距離まで、スピンの情報がまったく乱れることなく伝わりました。
数十マイクロメートルとは、人間の髪の毛1本とほぼ同じか、数本分の距離に相当します。
こんなに長い距離でも、磁石の向きをそろえたスピンの情報は途中で壊れることがありませんでした。
これは、トポロジカルという特殊な数学的な保護の仕組みによってスピン流が守られているためで、多少の欠陥や障害があっても影響を受けないことを意味します。
研究者たちは、この頑丈なスピン流を「欠陥や障害に対しても頑強なトポロジカルに保護されたスピン流」と表現しています。
今回の実験で特に注目すべきは、従来の研究のように巨大な磁石を使った大がかりな装置が不要で、極めて小さなチップの上で全ての結果を確認できたことです。
これは、スマートフォンやパソコンなど私たちの身近なデバイスに応用可能なスピントロニクス技術が、現実味を帯びてきたことを示しています。
では、この発見は具体的にどのような技術や製品に応用され、私たちの生活を変える可能性を秘めているのでしょうか?