合理的な判断を阻む心理効果

たとえば、あなたが登山をしていると想像してみてください。
山頂にある展望台を目指して登っていたところ、分岐を見落としてしまい、少し遠回りの道を進んでしまったと気づきます。
その時点で、現在地から先へ進むルートでも山頂にはたどり着けますが、急な登り坂が続くうえに、到着まで1時間以上かかってしまうことがわかっています。
一方で、いったん20分ほど引き返して正しい分岐に戻れば、よりなだらかで距離も短いルートがあり、そこからなら40分で山頂に到着できます。
つまり、「戻ればより楽なルートで早く着ける」ことが分かっているのです。
でも、実際にその場に立たされると、多くの人が「ここまで来たのに戻るなんて…」と感じてしまうのではないでしょうか。
20分の引き返し時間込みで考えても到着時刻が早くなるのに、「戻る」という行為そのものに抵抗を覚えてしまう──そんな不思議な心理に着目したのが、アメリカ・カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)の研究者たちです。
彼らは、あえて不利な道を選んでしまう人の行動を実験で再現し、「やり直せば効率がよいと頭でわかっていても、感情的にそれができない」心理のメカニズムについて調査を行ったのです。
これまでも、人がいまの選択に固執してしまう傾向は、心理学でたびたび指摘されてきました。
たとえば「現状維持バイアス(status quo bias)」とは、「いまの選択肢を変えるのは不安だから、このままでいこう」と無意識に思ってしまう心理のことです。
また「埋没費用の誤謬(サンクコストの誤謬, sunk cost fallacy)」という考え方もあります。
これは、コンコルド効果という呼び方の方が有名かもしれませんが、どう考えても続けると損失の方が大きくなる状況に対して「ここまでお金や時間をかけたのだから、もったいなくてやめられない」と過去の投資に引きずられて、やめる決断ができなくなる心理のことです。
ただし、これらの理論は「やめる(撤退する)」決断に対するもので、「引き返す」という行動に対する心理的抵抗はうまく説明できていません。
カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)の研究チームは、こうした「過去の投資を惜しむ」理由だけでは説明しきれない、人が「後戻り」することそのものに抱く抵抗感に着目しました。彼らは、「もしかすると人は、“戻る”という行為自体を避ける傾向があるのではないか」と考え、その仮説を検証するために4つの実験を行いました。
実験に参加したのは、アメリカ国内から集められた合計2524人の成人です。
最初の実験では、仮想現実の空間で参加者に道を選ばせる課題を行いました。
目標地点に向かう途中で、「今来た道を少し戻れば、より短いルートを通れる」という情報を提示します。
しかし、実際には多くの人がその近道を避け、遠回りでも前に進み続ける道を選ぶ傾向が見られました。
この結果だけでも、人が“引き返すこと”に強い抵抗を持っている可能性が示唆されますが、研究はここで終わりません。
次の実験では、単語を作る課題を用いて、身体的に戻る必要がない状況でも“やり直す”と感じるだけで選択に影響が出るかを検証しました。
参加者は「Gから始まる単語を40個書き出す」という課題を与えられ、10個終えた時点で「Tから始まる単語を30個作る方が簡単で速く終わる」という提案をされます。
ただし一部の参加者には「これまでの10個は無効になり、やり直しになります」と伝えました。
すると、「やり直し」と表現されたグループは、より効率的であると分かっていても、新しい課題に切り替えるのをためらう傾向が顕著に見られました。
これらの実験は、たとえそれが有益な選択だったとしても「戻ること」や「やり直すこと」そのものに対して、人が直感的に強い嫌悪感を抱くことを明確に示しています。
なぜ人は「戻る」ことにそこまで抵抗があるのでしょうか?