脳電極により男性は数十年ぶりに喜びを体験した
脳電極により男性は数十年ぶりに喜びを体験した / Damien Fair et al./CC-By 4.0
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脳電極により男性は数十年ぶりに喜びを体験した (2/3)

2025.08.20 22:00:30 Wednesday

前ページ個別にねらう脳刺激の出発点

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回路ごとの反応と喜びの涙

回路ごとの反応と喜びの涙
回路ごとの反応と喜びの涙 / Credit:Canva

今回治療を受けたのは、アメリカに住む44歳の男性です。

彼は13歳の頃から重いうつ病を発症し、その後30年以上も苦しんできました。

入退院を繰り返し、これまでに19種類もの抗うつ薬を試しましたが効果はなく、電気けいれん療法(ECT)を3コース受けましたが、長続きする改善はありませんでした。

絶望した彼は自ら命を絶とうとしたこともあり、生きる希望を完全に失っていたのです。

研究チームはこの男性を「TRD-1」と呼び、最初の治療対象者に選びました。

TRD-1さんはあらゆる従来治療が効かなかった「理想的なケース」(逆に言えば非常に深刻なケース)でしたが、もしこの人で新しい治療が成功すれば他の患者にも希望が持てる――そう考えての挑戦でした。

まず研究者たちはTRD-1さんのの配線をMRIなどで詳細にスキャンし、コンピューター上に精密な脳内ネットワーク地図を作りました。

その結果、この男性の脳では「サリエンスネットワーク」と呼ばれる回路が異常に大きく広がっていることがわかりました。

サリエンスネットワークとは、平たく言えば「何が大事か」に注意を向ける脳の回路で、本来は限られた領域にあるものです。

それが彼の場合は通常の約4倍もの広さにまで肥大化し、脳の前頭葉の広い範囲を占拠していました。

そのせいで、本来なら感情や思考を司る他のネットワーク(デフォルトモードネットワークや前頭頭頂ネットワーク)が圧迫され、小さく縮こまってしまっていました。

研究チームは、このような脳内ネットワークのアンバランスこそが彼のうつ病を引き起こす要因ではないかと考えました。

そこで、異常に広がったネットワークに対応する脳の前頭部のエリアをターゲットに定め、脳の表面に薄い電極パッドを設置する手術を行ったのです。

電極が正しく脳内の狙いどころに設置されたあとは、いよいよ電気刺激によるテストの開始です。

とはいえ強い電流を流すわけではなく、極めて弱い微弱電流で慎重に行います。

患者さんの頭には4枚の薄い電極パッドが設置されており、それぞれの電極にはいくつか刺激ポイント(コンタクト)が付いています。

研究者は組み合わせを変えながら様々なポイントに順番に電気刺激を与えては、その都度患者さんの気分や不安、注意力などの主観的な変化を細かく記録しました(患者さんにはどの設定か知らせないブラインド方式で行われました)。

その過程で驚くべき現象が起きました。

ある特定の場所(前頭極という額の奥のあたり)に刺激を与えた途端、TRD-1さんの表情が変わり、「気持ちがいい。不思議な感じだ。感情が溢れる…。これは喜びだ」と話しました。

彼は長い間、感じられなかった『喜び』の感情を突如思い出したのです。

この時刺激していたのは、先ほど異常が見つかったサリエンスネットワークに食い込んで縮小していたデフォルトモードネットワークという回路でした。

脳のこの部分を刺激することで、心の奥底から幸せな気持ちが湧き上がり、思わず涙が出るほどだったというわけです。

研究者たちは、映像で見る限り患者さんが本当に嬉しそうに泣き出したので非常に驚いたそうです。

一方で、同じ電極でも少し位置の異なるポイントを刺激した場合には「不思議と心が静かで落ち着いた感じ」が得られたり、逆に刺激の仕方によっては不安や焦燥感が増すこともありました。

このように、脳のどこをどう刺激するかで気分への効果は良くも悪くも大きく変わるのです。

TRD-1さんの場合、幸せや喜びを感じられるポイントも見つかった一方で、不安が強くなる設定もあり、「すべての刺激がプラスになるわけではない」ことが改めて確認されました。

だからこそ最良のスイッチの押し方を見つける必要があります。

研究チームは、この最適な刺激パターンを見つけるために、機械学習アルゴリズムの一種である『ベイズ最適化法』を活用しました。

簡単に言うと、コンピューターが患者さんの反応データを学習しながら、「どの電極のどの設定なら一番気分が良くなるか」を賢く探っていくのです。

手探りでスイッチを押すのではなく、AIという頼れる助手がベストな組み合わせを導き出してくれるイメージです。

TRD-1さんには手術後まず数日間かけて集中的に様々な刺激を試し、退院後も毎月通院して微調整を続けてもらいました。

その際、患者さん自身にはどの設定がオンになっているかわからないようブラインドテストを行い、公平に効果を評価しています。

例えば日記のように毎日の気分や睡眠時間を記録してもらい、どの刺激設定のときに調子が良いかをデータで比べました。

こうして約半年ほど最適化を繰り返した結果、ついに「これだ!」という刺激パターンが絞り込まれました。

手術から7週間(約1か月半)ほど経つ頃には、TRD-1さんは抱えていた自殺念慮(死にたい気持ち)が完全に消失しました。

さらに手術から9か月ほどで、うつ病の症状がほとんど感じられないレベルにまで回復したのです。

医師が評価するうつ病のスコアでも「重度のうつ病」から「ごく軽い症状」まで大幅に改善し、実質的に寛解(症状が治まった状態)に至りました。

驚くべきことに、この良好な状態はその後も維持され続け、治療開始から2年以上たった30カ月後も状態をキープできているのです。

これはTRD-1さんにとって大人になってから最長の「心が健康な期間」となりました。

実験前は集中力や判断力にも問題を抱えていましたが、治療後は認知機能もむしろ向上し、社会生活への意欲も湧いてきたといいます。

まさに、長い間真っ暗だった人生に初めて朝日が昇ったような劇的変化です。

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