『天気の子』の隠されたテーマは「法外のシンクロ」
まき この作品ほど評価が分かれるものも珍しいと思うんですが、あえていきなり聞きます。春井さんはこの映画を観て最初にどう感じました?(ゴクリ)
春井 そうですね、まず思ったのは「この作品のテーマは法外のシンクロだろう」ということでした。さすが新海監督、今一番タイムリーというか重要なところを突いてきたなと。
まき …いきなりボロクソに批判されたらどうしようかと思っていたので、冷静なご回答に少し安心しました。しかし何か早速難しそうな用語が出てきましたね…。法外のシンクロがタイムリー? まず法外のシンクロとはなんぞや…?
春井 映画を観る前に、毎日新聞の新海監督のインタビュー記事を読んだのですが、そこにこんな記述があったんです。
SNSが典型ですけれども、正しい言葉以外は、一斉にたたかれる。それも社会的な正しさ、国際的な正しさ、ポリティカル・コレクトネスという言葉もありますが、「正しさ」だけが流通してしまっている。
でも僕は、個人の願いとか個人の欲望とかって、時にはポリティカル・コレクトネスとか、最大多数の幸福とかとぶつかってしまうことがあると思う。でもそういうことが今、言えなくなってきています。常に監視されているような中、ルールから外れたことを言ってしまうと一斉にたたかれるし、常にたたく対象を探す祭りが起きているような雰囲気。
そういうところへの反発やいらだちが私の中でずっとあり、この閉塞感やどうしようもなさを吹き飛ばしてくれる少年少女がほしいという気持ちがありました。そういった2つの気持ちからこの企画になっていきました。
※毎日新聞「深海監督と川上プロデューサーインタビュー上」より
https://mainichi.jp/articles/20190723/k00/00m/040/210000c
まき このインタビューは私も読みました。今のSNSや時代の雰囲気を上手く捉えているなと。で、これと法外のシンクロがどう関係してくるんですか?
春井 法外のシンクロというのは社会学者の宮台真司さんの言葉なんですけど……『万引き家族』は見ましたか?
まき はい。去年公開された是枝監督の作品で、確かカンヌ国際映画祭で賞を取ったやつですよね。ボロ泣きでしたが?
春井 そうでしたか(笑)。あの作品は、万引きで生計を立てている血のつながらない疑似家族の絆の物語でしょ。万引きというのは違法。だから法外ってこと。シンクロというのは、まあ共感とか絆と言っていっていいんじゃないかな。だから、『万引き家族』のテーマも「法外のシンクロ」なの。
まき ああ、なるほど。法を超えたところで結びつく人間の絆ということですね。そういえば新海監督も『万引き家族』を観た時に、自分とやりたいことが近いなと感じたそうですよ。
春井 そんなにはっきり仰ってたんですね。宮台さんは、その法外のシンクロこそが本当の人間の結びつきだと言っているんです。
まき ふむふむ。でも、なんで「法外」であることが大事なんですか?「法外」って要はダメなやつですよね。盗んだバイクで走り出したり学校の窓ガラス割ったり。
春井 そう、普通そう思いますよね。でもこれにはふか〜い理由があるんです。それを説明するには、人間の意識の発達過程についてお話する必要があるんですけど……
まき 新海監督の感想から、心理学の専門知識が掘り起こされるわけですね!オラなんかワクワクしてきたぞ。
「社会的正しさ」は逆によくない?
春井 簡単にいうと、人間は13〜14歳になると、アイデンティティ(自我同一性)を確立することが課題になります。アイデンティティとは、「自分とは〜だ」という一貫した自分のイメージを持つことです。
まき ふむふむ。中二病とかもそこで出てくるわけだ。
春井 そうですね。人からどう見られているかということが非常に気になってきます。その自分を外から見る目を持って、自分の内面と向き合い始めるのがちょうどその頃なんです。
まき 人からどう見られるかを気にすることが、自分の内面と向き合うことの始まりなんですね。確かに革の黒手袋とか、自分の深淵と向き合わないとはめられませんよね…。
春井 …黒手袋はよくわかりませんが(笑)、心理学者のマーシャという人が、アイデンティティを確立するには、「危機と傾倒」という2つの要素が必要だと言っています。「危機」というのは、それまで当たり前のように受け入れていた親の価値観や考え方に疑問を感じ、これでいいのかと考え始めることです。「傾倒」とは、何か特定の価値観、世界観、考え方を自分で選択し採用して、それに基づいて目標等を設定して生きることです。そして、マーシャはアイデンティティが確立するまでには4つの段階があると言っているの。
まき 4つの段階?
春井 そう。危機も傾倒もない「自我同一性拡散」、危機を経験しない「早期完了」、危機を経ているが「傾倒」がまだない「モラトリアム」、危機・傾倒両方経験した「自我同一性達成」の4つです。
そしてこの中で「法外」に関係しているのが「早期完了」なんです。
まき モラトリアムって用語はよく聞きますね。その、法外に関係ある「早期完了」っていうのはどういう状態なんですか?
春井 早期完了とは、親の価値観をそのまま取り入れて、それを自分として生きるという状態です。本当の自分と向き合わずに、他者の考えを取り入れてそこに同一化して生きてしまうんですね。
まき 「ママがそう言うならそうなんだろう」的な案件ですねわかります。それと法外がどうして関係あるんですか?
春井 一度そういう風に生きる癖がついてしまうと、どんどん更に大きなもの、偉大なものと同一化したくなってくるんです。これは自分の自己肯定感を上げるためです。宮台さんも、自己肯定感には2種類あると言っていて、このような自己肯定感を「崇高なものとの同一化による自己肯定感」と呼んでいます。
まき そっか、その「崇高なもの」っていうのが法律とか、新海監督が言ってた「社会的正しさ」「ポリティカル・コレクトネス」ってことなんですね。そういうものに同一化しちゃうと、本当の自分が隠れて見えなくなっちゃって、偽りの人生を生きるしかなくなるんですかね。じゃあ、国とか政府とか、政治的思想とかっていうのもそうですか?
春井 うん。他にも、精神世界的な思想とか、男性女性とか、家族における立場(「親・兄・姉なんだから◯◯しなきゃ〜」)とかいろいろありますよね。
まき なるほどよくみるやつ…。
春井 そういう偽りの人生を生きている状態では、本当の人と人との関係性は結ぶことは難しいんです。同一化した「崇高なもの」を維持することが最大目的になってしまって、相手の感情とか考え方なんて大事にしようとは思えなくなります。
結局、そういう社会的正しさや政治的思想、精神世界的思想、性別なんかをアイデンティティにしても、そんなものは誰でも取り替え可能なもので、その人じゃなきゃダメというものではないですよね。そういう人には、帆高が陽菜にしたように、警察に追われることになっても人生をかけて会いたいとは思えないんじゃないかな。
まき 社会的立場とか作られたキャラじゃなく、本当の自分、取り替え可能ではない唯一の自分と相手の絆というのが大事で、それが「法外のシンクロ」なんですね。須賀が「帆高が警察から逃げてまで陽菜を助けに行こうとしている」と刑事さんから聞いたときに、涙を流していましたけど、それも「法外のシンクロ」に感動したということなんですかね。
春井 そうですね。新海監督はまずはそれが言いたかったのではないかと思います。
セカイ系とは真逆の作品である『天気の子』の挑戦とは
まき 私もそうだったんですが、この「天気の子」には様々な方が違和感を持ったようなんですね。セカイ系ファンも、それこそ新海原理主義の方も。私は、新海監督の「挑戦状」「反骨精神」のようなものを感じました。監督自身、観た人を「怒らせたい」なんて言っていたし。
春井 そうですね。新海監督は「自我の誘惑」を全て断ち切る方向性、今までの枠を超える作品を目指したのではないかと思うんです。すると、当然今までのシステムに安住していた人は違和感を持ちますよね。
まき 「自我の誘惑」って?
春井 例えば、さっきの「崇高なものとの同一化によって自己肯定感を上げたい」という欲求は、まさに人間の心に備わった自我を維持しようとするシステムから生じるものなんです。それが「自我の誘惑」。
新海監督は、まず、その「崇高なもの=社会的正しさ」に同一化して自我を保つことに一石を投じたわけですね。
まき なるほど。それが私の感じた「観客への挑戦状」だったのかな。そういえば、帆高や陽菜が街で出会う働く大人たちは、社会的な立場に同一化して生きている人の象徴だったのかも?
春井 そうですね。そして『天気の子』は、監督が意図したかはわかりませんが、セカイ系にも同じように一石を投じている気がします。今までのセカイ系というのは、2人の関係と世界の終末のような非現実的な状況というのが並行して描かれていたわけですが、その間の社会や他者の集団・コミュニティというものは描かれていませんでした。2人の感情的なやり取りに焦点が当てられ、社会や現実というものがまるでないもののように描かれるわけです。
まき 私はセカイ系といわれる作品は大体大好きなんですが、『新世紀エヴァンゲリオン』にしても『涼宮ハルヒの憂鬱』にしても、確かに「俺とお前」で世界の行く末が決定したりしますもんね。
春井 そうですね。こういう2人の感情的な関係だけの世界にいるのは、人間にとってはラクなんです。それこそ「自我の誘惑」に負けた世界ですね。
まき えっと…なんかごめんなさい…
春井 セカイ系が好きな人を責めているわけじゃないですよ(笑)。私もセカイ系の面白さはよく分かります。
ただセカイ系は、「お母さんと息子」という全能感をもったまま存在できる乳幼児期の世界に近いものがあるんですよね。新海監督は、そこに「社会」「現実」「警察」「善悪の概念」というものを持ち込んできた。これは、本当にセカイ系への挑戦状ですよね。そこに安住はさせないぞ、「自我の誘惑」に勝てと言っているのではないでしょうか。
まき あ〜、だからセカイ系の作品とみると違和感を感じるんですね。
春井 そして、この「社会」や「現実」、「善悪の概念」「常識」というのは、有名な心理学者のフロイトの言葉でいうと「超自我」ということになるんです。
まき また新しい用語が出てまいりました。「超自我」とは?
春井 4〜6歳の、言葉が発達してくる男根期という時期に「〜すべき」とかの善悪の概念が出てくるんです。それが「超自我」。
それまでは、子供はお母さんと自分だけの主観的な世界にいるんですが、言葉というのはその他大勢の共通認識のうえに成り立つものだから、客観的な世界なんです。それで超自我が生じて、子供は客観的な世界を認識するようになる。そして、児童期にかけて、超自我を取り込んで社会の一員として生活できるようになっていくんです。
宮崎駿・庵野秀明…なぜ他作品との類似点がたくさんあるの?
まき 子供はお母さんと2人の世界、主観世界だけに留まっていては成長できないということですね。「超自我」、つまり社会や現実をとりこまないと。
春井 そうなんです。帆高は家出をして東京に来て、必死に仕事を探して「社会」に適応し、「超自我」を取り込もうとしていましたね。実はこれと同じテーマを扱っているのが、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』なんです。これも、転校でふてくされていた10歳の女の子が、湯屋での労働をすることで「超自我」を取り込み成長するという物語でしたよね。
まき なるほど。そういえば『天気の子』は色々と似ている作品があると言われていましたが、特に話題になっていたのは『千と千尋』でした。空からくるくる落ちるシーンなんかもそっくりですし。
春井 そういえばそうでしたね! 新海監督も意識してるのかもしれませんね。そして逆に、「超自我」を取り込むことへの反発を描いているのが、庵野監督の『新世紀エヴァンゲリオン』なんだと思います。
まき ここでまさかのエヴァが来た(笑)。わかりやすく反発していたイメージはないんですが、どういうことでしょうか?
春井 『エヴァンゲリオン』で「超自我」として機能しているのは、なんと言っても父ゲンドウですよね。そして、その「超自我」の指令としてのエヴァンゲリオンに乗って使徒を倒すということです。
まき なるほど。ゲンドウには確かに反発していましたね。
春井 そう。シンジくんは「逃げちゃダメだ」と言いながらエヴァに乗るわけだけど、これは「超自我」を取り込んだことにはならないと思っています。
まき でも、シンジくんは結局エヴァに乗るじゃないですか。しかもちゃんと使徒を倒してますよ? それでもダメなんてスパルタすぎるんじゃ…?
春井 でもその乗り方というか、どうしてエヴァに乗ったかという動機が重要なんです。「超自我」を取り込んだ場合は、「自分しか地球を救えないのであれば、乗ろう!」「みんなを救おう!」となるはずなんです。シンジくんはそういう感じじゃないですよね。
まき あ…言われてみれば…。
春井 「逃げちゃダメだ」は自我が自分に言い聞かせているだけのように感じます。最初のシーンでは、ゲンドウの命令は拒絶しますが、綾波レイの傷ついた姿を見てエヴァに乗りましたよね。それはやっぱり「超自我」を取り込むことへの拒否と取れるように思うんですよね。
まき 「綾波を助けたい」は、「超自我」を取り込むことの拒否なんですか?
春井 綾波はお母さんの遺伝子から作られたクローンでしたよね。『エヴァ』の中では綾波=母なんです。『エヴァ』の作品中にも綾波との融合から覚醒に至るみたいなシーンが結構ありますが、それは「母との融合」を表していると取れます。
そして「人類補完計画」というのも、さっきお話した「お母さんとボクだけの世界」、さらには、お母さんと一体だった子宮内に戻ることを表しているんじゃないかと思っています。つまり『エヴァ』では、「超自我」を取り入れることによる成長よりも、「母との融合」=子宮回帰への欲望が強いように思うんです。
だから最初のシーンでは、シンジくんは「超自我」の声は取り入れず、綾波=母を救いたい、母と融合していたころに戻りたいという欲望からエヴァに乗ったと取れるんですよね。
まき なるほど。そういえば、「私に還りなさい」って歌詞の名曲がありましたよね(『魂のルフラン』)。あれも子宮回帰を示しているんじゃないかと言われていました。
春井 そうですね。だから、『エヴァンゲリオン』という作品は、「超自我」と子宮回帰の間で翻弄される自我の物語。「超自我」を取り込まないで済む範囲での成長と葛藤のストーリーなんです。主にアニメ版と旧劇場版での話ですが。
そして、この宮崎駿と庵野秀明という2人の巨匠が築いてきた「超自我」との攻防の物語を、新海監督は『天気の子』でさらに発展させたと言えるんじゃないかと私は思っているんですよね。
新海監督が新たに組み込んだ「時代性」と「現代社会の実情」
まき 自我と超自我との攻防戦かぁ…。そういう視点で見ると、全く物語を見る視点が変わりますね。その攻防戦、新海監督はどのように発展させたんですか?
春井 うん、新海監督は、そこに時代性と現代社会の実状を入れ込んできたと私は思っているの。
まき 時代性……そういえば、インタビュー記事で新海監督は、
2000年代初頭は「社会」の存在感が薄い時期で、それを意識する必要がなかった。
僕のつくるものがそういうものになってきているということは、僕がどうこうというよりもみんなにとって「かつてのように社会が無条件に存在し続けると思えなくなってきている」「社会そのものが危うくなってきている」という感覚があるからこそだと思っています。
とも言っていました。これって、その時代性と関係あるんでしょうか。
春井 そうですね。最初にあげたインタビュー記事でも仰っていたけれど、現代の日本社会の雰囲気を敏感に感じ取って、それを作品にしたんだと思います。それを説明するために、ちょっと日本社会の意識変化についてお話してみますね。
まき もはや社会学じみてきましたね。お願いします。
春井 まず、『エヴァ』が放送開始された1995年から『千と千尋』が公開された2001年くらいまでは、日本社会はまだ「自分軸」の時代だったのね。
まき 「自分軸」の時代? 自分勝手とは違うんです?
春井 字面的に間違えやすいけど、自分勝手とは違います。厳密に言うと、1970年代から始まっているんだけど、その頃って、「自分探し」とか心理学がブームになっていて、ワイドショーとかでも心理学者や精神科医がコメンテーターをやっていることが多かったの。宗教やオカルトブームとかもあってね。95年にオウム真理教事件があって、宗教やオカルトは下火になるけど、2000年代初頭までは精神的に深く自分に入っていくのがカッコいいって時代だったんです。
まき そういえば、浜崎あゆみとか椎名林檎とかCoccoとか鬼束ちひろとかが流行ったのもそのころでしたね。
春井 そうですね。他者よりも自分だった。自分を押し出すほうがカッコいい時代。それが、2000年代初頭以降、徐々に自己の価値が下がって、他者の価値が高まっていった。現在は「他者軸」の時代になっていますね。
まき なるほど。そういえば、今って自分を押し出すのはカッコ悪いとか、恋愛に夢中になることすらカッコ悪いという雰囲気もありますよね。「自分軸=自分勝手」と思う人も多いように感じます。
春井 そう。他者に認められることによって自分の価値を高めたいという風潮が出てきたんですよね。ツイッターやインスタなどのSNSの流行もその流れ。そうなると、最初にお話した「崇高なものとの同一化による自己肯定感」を得ようという力が社会全体で高まります。
まき 自分に価値がないとなれば、「自分じゃない崇高なもの」と同一化したくなりますからね。そうなると、当然新海監督も言っていたけど、その基準に合わないものを叩くようになると……
春井 そうなんですね。今、日本社会はそういう時代に入っていると私は思っています。同時に、先程お話した成長に必要な「よい超自我」、つまり客観性とか理想的人間像、弱者を助けるなどの価値は地に落ち、逆に、他者を規則や地位で評価し、コントロールしようとする「悪い超自我」が権勢を奮っています。「崇高なもの(社会的正しさとか権威等)との同一化による自己肯定感」はこの「悪い超自我」を生み出します。
まき なるほど。で、新海監督が発展させたというのはどういうところなんですか?
春井 それは、現代の日本社会における「超自我」との向き合い方を描いたところじゃないかと思っています。つまり、2000年代初頭以降の「他者軸」や「崇高なものとの同一化による自己肯定感」の時代における「超自我」との向き合い方ということです。
まき 現代の日本社会における「超自我」との向き合い方……
春井 そう。『エヴァ』が放映され始めた95年以前はまだ「超自我」の影響力が強かったんです。70年代〜80年代は『巨人の星』『宇宙戦艦ヤマト』『北斗の拳』とか、マッチョで男性的な理想的人間像(超自我)を描くものが多かったんだけど、シンジくんは真反対ですよね。だから、「超自我への反発」を描いた『エヴァ』は、「超自我」にウンザリしていた若者から絶大な人気を得たんじゃないかな。「別に超自我の言うことなんて聞かなくてもいいんだよ」「君はそのままでいいよ」というメッセージになったんだと思います。
まき なるほど。じゃあ今の時代の雰囲気も、前の時代があったからこそ次の段階へ進んだという感じなんですね。
春井 そうですね。そこから「超自我」は徐々に影響力を弱めていくんだけど、2001年の『千と千尋』は、「いやいややっぱり超自我は必要だよ。労働で超自我を取り込もう」というメッセージでした。『千と千尋』では、「悪い超自我」は湯婆婆、「よい超自我」は銭婆で表されています。千尋は、労働で超自我を取り込み、本当の自分を見つけるんですね。
まき ふむふむ。宮崎監督も、超自我を2つに分けて描いているんですね。
春井 そうですね。それを引き継いで新海監督も「よい超自我」「悪い超自我」を描き分けています。というか、2000年代初頭以降の時代性を盛り込むには分けざるを得ないんです。先程も言いましたが、現在は「よい超自我」が価値を落とし、「悪い超自我」が拡がっています。『天気の子』ではその象徴が、社会に同一化して生きる冷たい大人たちであり、雨が降り続く暗い社会ということなのではないかと思います。
晴れ女である陽菜にとっては、降り続く雨というのは、そのまま自分を善悪の価値観で判断し、「晴れにすべき」と迫ってくる大衆の声そのものに見えるのではないでしょうか。
まき なるほど。降り続く雨が陽菜にとっては、「悪い超自我」に見えるんだ。
陽菜が連れて行かれたのは「統合失調症的世界」
春井 そうですね。そういう「悪い超自我」や「他者軸」の時代に、私たちはどう生きるべきかというのが、『天気の子』のテーマなのではないかと思うのね。まず陽菜を見てみると、前半、非常に他者軸の生き方をしているよね。
まき 確かに……お母さんが死んで弟を養うためにバイトして、風俗にも行こうとする。晴れ女業も、弟と帆高のためという描写がありました。
春井 晴れ女業をすると消えてしまうと分かっても、帆高のためにと考えて自分を犠牲にしてしまうんですね。そして、他者軸が極まると、天の世界、彼岸に連れて行かれてしまう。彼岸とは、自分と世界が一体化した主観だけの世界と考えれば、精神医学的には統合失調症的な世界とも言えるかもしれません。
まき 精神医学的にいうと、陽菜は他者軸で生きすぎて、統合失調症的な感じになっちゃったということ?
春井 そうとも解釈できるかなと。それを帆高に助けられ、戻ってくる。そして、最後の帆高との再会シーンでは、もう晴れ女の力がないかもしれないのに、祈っている。これは陽菜が他者軸ではなく、自分軸で、自分のために祈っているということなのではないかと思ったんです。
まき なるほど。陽菜の物語は、他者軸の生き方から自分軸の生き方になる成長の物語なんですね。
春井 そうとも解釈できると思います。
春井 そして、帆高の生き方にも、この「他者軸」「悪い超自我」の時代に私たちはどう生きるべきかということが少し違う視点でより詳しく語られています。
まき あら、帆高も? というか、そういえば主人公でしたね(笑)。
春井 はい。むしろ帆高がメインで陽菜のストーリーが補足という感じですね。帆高は、故郷の島から、おそらく両親とのいざこざがあって、東京に家出をしてきます。これは先程お話した「危機」ですね。そこから、なんとか社会=「超自我」を取り込んで生きていくために奮闘しますね。これは「よい超自我」です。その過程で、陽菜と出会います。その陽菜と関わり合いながら晴れ女業を通して、絆を深めていくんですよね。そこから、「超自我」との衝突が起こってきます。
まき 「超自我」との衝突?
春井 まず、晴れ女業がテレビで取り上げられ、依頼が殺到し手に負えなくなる。テレビやマスコミというのは、集団の力、客観の力ですから「超自我」のうちに入ると思います。そして、帆高が警察に追われる。警察は「悪を取り締まる」組織ですから、そのまま「超自我」の機能です。そして、陽菜と弟が子供だけで暮らしていることがバレて児童相談所の人が来る。社会福祉施設というのも、社会が人々の生活を守る、改善するためのものですから、「超自我」ですね。
まき 帆高と陽菜は「超自我」とそんなに衝突してたんですね…。
春井 そこが、今までのセカイ系と違うところですよね。「超自我」との衝突が起こる前は、おそらく帆高も陽菜も、「超自我」=社会的正しさに影響され、他者軸に寄っていたんじゃないかと思うんです。でも、衝突を繰り返し経験した上に、「他者軸」「悪い超自我」の時代性=降り続く雨を改善しようと晴れ女業をすることで陽菜は消えてしまうんです。
まき なるほど。
春井 そこで、帆高は考えたんじゃないかな。「超自我」=社会的正しさって何なの? これに従っていてなんかイイことあるの?って。確かに「いい人」「社会的にきちんとしてる人」と思われたほうが気分はいいけどって。それを経て、帆高は陽菜を救うために、「超自我」=社会的正しさを超えて、本当の自分の気持ちを優先させることを決心します。
まき 社会的正しさは生きる上で必要だけど、自分の気持ちの犠牲の上に立つものではないと。
春井 はい。ここがきっとみんなが一番違和感を持つ場面だと思うんですが、これは、今までお話してきた「崇高なものとの同一化による自己肯定感」を得たいという「自我の誘惑」に負けずに、本当の自分の気持ちを取ったということなんじゃないかなと私は思っているの。
まき あー、そういうことだったんですね。簡単に自己肯定感を上げられる「社会的正しさ」を取り入れるだけの生き方ではなく、本当の自分の心の奥底から湧き上がってくる気持ちを大事にすることが大切なんだよというメッセージだと。
「超自我」を自覚すると『天気の子』は何倍も楽しめる
まき でも、まだちょっと納得いかないところがあります。逆に、「そんな自分勝手なことしていいの?」ってなる気がするんですよ。「ちょっとした天気の変化で健康が左右される人がいるのに、自分を優先させていいの?」って。私もちょっとそう思いましたもん。
…あ、もしかして、「超自我」に対する自分の態度で、『天気の子』を楽しめるか楽しめないかが決まってくるんでしょうか?
春井 そうかもしれないですね。「超自我」の働きや「自我の誘惑」に自覚的かどうか。帆高は、この場面で「自我の誘惑」「時代の誘惑」を振り切って、他者軸から自分軸に舵を切った。このシーンは、2000年代初頭以降の「他者軸の時代」だからこそ意味があるシーンなんだと思います。
まき なるほど。本作では、社会的正しさが他者軸の象徴であって、それは自分にとっては楽になれる誘惑でもあると。この話を、「社会的に正しいかどうか」でなく、それを振り切って本当の自分を取り戻す話と見れるかどうか、ということでしょうか。
春井 そうですね。この作品を観た人の「人間はどう生きるべきか」という問題の答えがどのようなものかによって、捉え方が変わってくるんです。
まき たしかに。
では、また『天気の子』のストーリーに戻りますが、帆高はそのあと陽菜を救いに行くわけですよね。
春井 そうですね。帆高は他者軸から自分軸に移行することによって陽菜を救うことに成功するんですが、その後島に戻って保護観察処分を受け、高校を卒業します。ここで、また「よい超自我」を取り込み成長するわけですね。その成長した帆高が、再び陽菜と再会します。
まき 難しいな〜。「よい超自我」は必要だけど、「超自我」に流されすぎて、同一化しちゃったらダメなんですね。そこから「悪い超自我」が生まれちゃうと。
春井 そう。帆高はそれに気づいたんだと思う。でも、再び東京に戻ってみると、東京は湖のようになっています。これは、「他者軸」「悪い超自我」の時代はそのまま変わっていないどころか悪化しているということを示しています。時代性は帆高と陽菜という個人にはどうしようもないことなんです。
まき うわぁ元も子もない(笑)。2人の世界がいくら救われても、本当の世界は救われないのか。これはセカイ系ではないですね。
でも、とても時代性を表しているかと。最近は温暖化が世界的に喫緊の問題とされているし、日本でも巨大な台風や異常気象が実際に起きていて他人事ではなくなってますよね。そのような時代に、「自分軸」をどう捉えるのかということなんですね。
春井 ですね。なので、このような「他者軸」の生き方や「悪い超自我」に影響されやすい時代こそ、「法外のシンクロ」が大事になってくるよ、ということなんです。「よい超自我」はきちんと取り入れた上で、自分軸で生き、本当の自分の気持ちとつながること。そして、取り替えのきかないアイデンティティを確立した自己と他者の絆を大切に生きること。それが、2000年代初頭以降の「他者軸」の時代を生きる私たちが大切にすべき生き方なんじゃないかな。それが『天気の子』の表現したかったことではないかと私は思っています。
まき そうか、だから新海監督は「法外のシンクロ」をテーマにしたんですね。
「ファンタジーの皮をかぶった別ジャンル映画」が違和感の正体
まき では、改めて最初の疑問に戻りたいと思います。春井さんはみんなが感じた「違和感」の正体は何だったと思いますか?
春井 『天気の子』を観る前は、今までの新海監督の作品のような切なさとかノスタルジーとか相手を純粋に思う気持ちに感動したり、何らかのカタルシスを期待していた方が多かったと思うんですね。でも、今までお話してきたように、新海監督の今回の作品のメインのテーマはそこではなくて、「法外のシンクロ」や「超自我」「他者軸から自分軸」というものだったと思うんです。
ですが、このテーマは現代社会の実状や心理学的なことに関心がないと、一回観ただけでは分かりにくかった部分もあるのではないでしょうか。そうじゃないと、帆高と陽菜が自分たちの気持ちを優先したために東京は水に沈んだままになっているのに、「僕たちは大丈夫!」と言われても「なにコレ?」となってしまいますよね。
まき なるほど。視聴者はそこに違和感を感じてしまうんですね。『天気の子』はファンタジーの皮をかぶった、ゴリゴリの社会派映画だったんだ。
…でも最後に一つ疑問が…。先ほど、『天気の子』と『千と千尋』の共通点をお聞きしました。でも、『千と千尋』では元の世界に戻りましたよね。『君の名は。』でもそうです。でも天気の子は違うじゃないですか。それは、やっぱり、この今の時代性というものを訴えたかったからなんでしょうか?
春井 そうだと思います。個人ではどうにもならない「他者軸」の時代に、個人がどう生きるかということを表現するために、敢えて世界を水浸しのままにしたということじゃないでしょうか。
まき なるほど。他者軸に振り回されずに、自分を生きることが大切だと。
春井 そうですね。現在は、AIの技術や量子コンピューター、トランスヒューマニズムなどに人類の希望を見出している方が多いと思いますが、私はやっぱり、新海監督がいうように、「法外のシンクロ」のその先に人類の未来があると思っています。
まき 「他者軸」の時代でも、「法外のシンクロ」があれば「僕たちは大丈夫!」ということですね。
春井 はい。きっと「大丈夫」です。
今回お話してくださった春井星乃さんと、ナゾロジー編集長maxim、そして半田広宣さんが共著で書いた本が発売されました!
「ぼっち」な私たちが、現代の生きづらさ、孤独感の中で生き抜くにはどうしたらいいのか? 誰もが知る映画の評論を通し、量子論、哲学、神話、心理学の知識が一つにつながる珠玉の一冊です。
・『君の名は。』
・『新世紀エヴァンゲリオン』
・『ロード・オブ・ザ・リング』
・『マトリックス』
・『2001年宇宙の旅』