勇敢なファラオが迎えた最期とは?
セケンエンラーは、エジプト第17王朝(BC1580〜1550年頃)のファラオです。
当時のエジプトは、中東のレヴァントから侵入してきたヒクソス人に征服され、彼らが建てた第15王朝に服従していました。
ヒクソスの第15王朝は北エジプト全域を支配し、第17王朝を南部に追いやって、事あるごとに貢ぎ物をさせています。
残された記録によると、当時のヒクソス王から次のような苦情がありました。
「テーベ神殿で飼われているカバの鳴き声がうるさくて眠れないので殺すように」
テーベ神殿とは、17王朝が居をかまえた南部にあり、北部のヒクソス王に聞こえるわけありません。
要するに、完全な嫌がらせだったのです。
これが17王朝の不満を爆発させ、セケンエンラーをして反乱を起こすきっかけになったのでしょう。
17王朝は北の15王朝へと進軍し、両軍の戦闘が勃発します。
この戦いの記録としては、セケンエンラーの息子(あるいは兄弟)で、後継者のカーモスがヒクソスとの戦いで死亡したことが残っていますが、セケンエンラーの死の真相は分かりません。
幸運にも、1886年にセケンエンラーのミイラが発見されましたが、当時は高度な調査技術もなく、そのまま放置されることになります。
そこで今回、研究チームは、コンピューター断層撮影 (CT)により、セケンエンラーのミイラを詳しく調査しました。
ミイラは損傷が激しく、身体の骨はバラバラで、頭部は胴体から分離しています。
その中で、額、目、頬の周りに深い切り傷と、頭蓋底に脳幹に達したと見られる刺し傷が発見されたのです。
額の傷は長さ7センチで斧か剣によるもの、右目上の傷は長さ3.2センチで斧によるもの、鼻や右頬にも刃物による切り傷が見られました。
これだけでも十分に致命的ですが、極めつけは長さ3.5センチの頭蓋骨の傷でした。
明らかに武器が貫通した傷であり、おそらく槍で頭上から刺されたと推測されます。
一方で、腕には外傷が一切見当たらず、後ろ手で拘束されていた可能性があります。
このことから、研究主任のサハル・サリーム氏は「セケンエンラー自ら戦闘に参加したものの、捕らわれの身となって、最期は四方八方から八つ裂きにされたのではないか」と指摘します。
これまで傷を負ったファラオのミイラはあっても、戦死したことを示唆するものはなく、セケンエンラーはかなり好戦的で勇敢な王だったのかもしれません。
彼とカーモスの死後、17王朝はセケンエンラーの妻であったイアフヘテプ1世をトップに立て、ヒクソスとの戦闘を続行します。
そして、2人の子であるイアフメス1世が成人して王位につくと、ヒクソスとの戦いに勝利して、エジプトを統一。
これをもってエジプトは、第2中間期と呼ばれる時代を終え、新王国時代へと入っていきました。