「負の温度」はこの世の何よりも熱い
この世でもっとも冷たい温度として知られているのが、絶対零度(0K=-273.15℃)です。
古典物理によれば、物体の温度は内部の粒子の運動エネルギーによって決まり、0Kの物体は粒子がまったく動かず、エネルギーレベルがすべてゼロにそろった状態と解釈されます。
しかし、そこから少し温度を上げると、粒子のエネルギーは多様化していきます。
たとえば100℃の液体内では、“すべてが100℃相当のエネルギーを持つ”わけではなく、少数の高エネルギー粒子と多数の低エネルギー粒子に分かれているのです。
たとえば100℃の液体の内部にある粒子のエネルギー状態を調べ上げると、全てが100℃に匹敵するエネルギーを平均して持っているわけではなく、一部の高エネルギー粒子とその他多くの低エネルギー粒子によって構成されていることがわかります。
温度計が100℃を示すのは、高エネルギー粒子と低エネルギー粒子がランダムに衝突し、その結果として「平均的に100℃程度」と判断されているにすぎません。
実際には1億℃や1兆℃でも、粒子すべてが高エネルギーなわけではなく、依然として低エネルギー側に集中するという分布パターンが続きます。
100℃の熱湯でやけどをするのも、ほんの一部の高エネルギー粒子が肌に接触するためで、もしその高エネルギー粒子のみを完全に制御できれば、熱湯に指を入れても火傷しないかもしれません(とはいえ現実的には不可能ですが)。
こうした「高温でも、実は大多数が低エネルギー側にいる」という現象は、正の温度が持つ基本的な性質です。
(※厳密には「正温度のボルツマン分布では高エネルギー状態ほど粒子数が指数的に減少する」という表現になります)
古典的な物理学の世界……つまり正の温度の世界では、どれだけ熱を加えて物体全体のエネルギー量を上げても、高エネルギー粒子と低エネルギー粒子の“比率そのもの”は変えられません。
温度の上限は無限大とされますが、「ほとんどの粒子が高エネルギー状態に偏る」ようにはならないのです。
ところが量子力学の発展によって、これまで不可能と思われていた「負の温度」が理論的にも実験的にも見えてきました。
名前だけ聞くと「0Kよりもっと冷たいの?」と思うかもしれませんが、実態はより奇妙で、「正の温度の延長線」とは全く違った独自の世界を作っています。
正の温度では「少数の高エネルギー粒子+多数の低エネルギー粒子」という構成でしたが、負の温度の物体はむしろ「多数の高エネルギー粒子+少数の低エネルギー粒子」という、古典物理の常識ではありえない分布になっています。
上の図は正の温度の物体と負の温度の物体を構成する粒子たちの持つエネルギーを簡易的に示したものです。
縦軸が粒子のエネルギーレベルで、横軸が存在割合です。
正の温度の物体は低エネルギーレベルの粒子が一番多い一方で、負の温度の物体は高エネルギーレベルの粒子が一番多くなっています。
両者を比較すると、まるで鏡の世界のように逆のエネルギー分布をしているのがわかるでしょう。
「単なるエネルギー分布の違いのことを大げさに「負の温度」のような言葉で誇張していたのか?」と思う人もいるかもしれませんが、決して大げさではありません。
負の温度を持つ物体は、正の温度の物体が決してできないことを可能にします。
負の温度の物体は「この世の何より」も熱く、どんなに高温の物体(たとえ無限大の温度でも)も加熱することができるという特性を持つのです。
正の温度の世界では、熱い物体から冷たい物体に向けてエネルギーが流れます。
たとえば100℃の物体Aと20℃の物体Bを接触させると、より熱いAからより冷たいBに向けてエネルギーが流れます。
これにより加熱する側がより熱いという定義がうまれます。
ですがここに負の温度の物体が参加すると、奇妙なことが起こります。
正の温度の物体を構成する粒子の大半は低エネルギー状態です。
それに対して負の温度の物体は総合的なエネルギー量が劣っていたとしても、ほとんどの粒子が高エネルギー状態に偏っています。
そのため正の温度の物体が宇宙で最も熱い温度を誇る物体であっても、負の温度の物体は接触と同時に正の温度の物体に熱エネルギーを与え加熱することができるのです。
加熱する側がより熱いという定義に基づけば「負の温度は、熱力学的には無限大の温度よりもさらに熱い状態」ということになります。
問題は、そのような負の温度の特徴を持つ物体をどうやって作るかです。
先にも述べたように、古典物理の描く正の温度の世界では、加熱によって物体の総合的なエネルギー量を増やすことはできても、高エネルギー粒子と低エネルギー粒子の比率を逆転させることはできません。
そこで研究者たちは、古典物理の枠組みを飛び越え、量子力学の世界で負の温度の実現を目指すことにしました。
量子力学の世界ではまず、古典物理に存在しなかった温度の上限を設定することが可能です。
たとえばスピン系と外部磁場を使う場合、通常の正の温度に該当するときには、スピンの方向は外部磁場とそろう方向(たとえば下向き)をした低エネルギー状態のものが多くの割合を占めています。
(※このときエネルギー状態の最大値は、全てのスピンが上向きの状態のときです)
この状態に対して共鳴を起こす電磁波を照射すると、スピンは磁場と反対向き(上向き)の高エネルギー状態に移行させることができます。
この操作を繰り返し照射することで、最終的にほとんどのスピンを高エネルギー状態に移行させ、エネルギー状態の分布を反転させることができます。
簡単に言えば、量子力学のスピンの概念を利用し、低エネルギーの粒子に電磁波を与えてほとんどを高エネルギーの粒子に変えてしまうという方法です。
他にも光格子を用いた方法では、まず原子を絶対零度に近い温度に冷却しておき、光格子の深さや形状を調節して、エネルギー順位の配置を制限します。
そこにレーザーや電場を用いてエネルギーを注入することで、エネルギーの高い状態が優先的に占有されるようにします。
たとえるなら、絶対零度付近に冷やした粒子たちに、量子力学的な手法を使って高エネルギー状態になりやすい状況を用意し、最後に衝撃をあたえて、高エネルギー粒子の割合を増やす方法と言えるでしょう。
これらの手法は、どちらも量子力学的な概念や操作を必要としており、古典物理では達成不可能なものとなっています。
負の温度の世界への扉を開くことは、単なる技術的なチャレンジではありません。
私たちのよく知る物質やあまり知らない物質を負の温度の世界に案内することで、予想もつかない物体の状態を引き起こすことが可能になるかもしれません。
そこで新たな研究では、量子力学の世界でも奇妙さが際立つ「幾何学的フラストレーション」という状態を、負の温度の世界に放り込むことにしました。
「奇妙」×「奇妙」を試すことにより、信じられないほど奇妙な何かが出現するかを試したのです。