3割の物語(種)が絶滅し9割の写本(個体)が失われた
生態学では特定の範囲に住む生物をサンプリングして、未発見の種がその地域にどれほど存在するかを確かめる手法がとられています。
この手法では新種がとれた数、サンプリングの範囲、森の広さを比較して、その森全体にどれほどの未発見の種が存在するかを概算します。
物語の生態学を分析するにあたって研究者たちは過去のヨーロッパに誕生した物語を「種」として解釈しました。
そして生き残っている物語原本のコピー数を採取して多様性を分析し、本来存在すると考えられるバリエーションの総数を算出しました。
分析の対象となったのは、ドイツ・アイルランド・アイスランド・オランダ・フランス・英国の言語で記録された799種の物語とそれぞれの物語の内容を記した3648冊の写本でした。
研究者たちがこれら種と個体の多様性を生態学的な分析にかけたところ、元々は1170種の物語と、40600冊の写本が存在したことが示されました。
物語の種としての絶滅率は30%ほどになり意外と低かったものの、物語の多様性のパラメーターとなる写本は実に90%が失われていたのです。
また地域によって物語の生存率は大きく異なることが判明します。
ドイツ・アイルランド・アイスランドで複製された中世の物語種の75%は、少なくとも1つの写本で生き残っていることが示唆されました。
しかしオランダとフランスでは生存率は50%に、英国ではさらに低く38%の物語しか生き残れなかったことが示されます。
これら物語「種」の生存率の差は、複写の盛んさ(増殖率の高さ)や生息地の分布範囲の広さにあると考えられます。
アイルランドやアイスランドといった島々では物語の複製が盛んであったことが知られており、さらに多くの写本が島内で均一に分散している状態にありました。
そのため図書館や修道院などの一部の生息地が火災で失われても、生き残った物語が速やかに再複製されたために、高い生存率を誇っていたのです。
一方で、フランスなどでは物語の複写があまり盛んではなく(増殖率が低く)時間の経過や災害によって絶滅する物語が多くなってしまいました。
そして英国では、物語の生息地であった修道院がヘンリー8世によってほとんど解散されてしまったため、物語の絶滅が頻発したと考えられます。
中世において修道院は物語を含む本の複写が行われた数少ない場所であり、私たちが古代ローマや古代ギリシャ時代の人々の文献を知ることができるのは、修道士たちの長年にわたる複写のお陰でした。
その修道院が閉鎖されたわけですから、物語たちの生息地はほぼ壊滅状態になったと考えられます。
また1066年にイギリスがフランス語を話すノルマン人に支配されたことも、英語で書かれた物語の絶滅に寄与した可能性があります。
物語にとって一番の災厄は、人間の政治と戦争だったと言えるでしょう。
絶滅した物語には、いったいどんな英雄の活躍が秘められていたのか……今となっては誰も知ることはできません。
現在多くの人々が知るアーサー王の伝説が生き残ったのは、そんな大量絶滅を運よく生き延びらたからに過ぎないのでしょう。