謎多きピクト人は「タトゥー軍団」だった?
ピクト人は、古くからスコットランドの北部、ハイランド地方を支配していた強大な部族として伝えられています。
記録に初めて現れるのは、西暦98年に古代ローマ人のタキトゥスが書いた『アグリコラ』においてです。
そこでは、西暦83年にローマ帝国軍とピクト軍が戦い、ローマ軍が大勝した旨が記されています。
しかし、ローマ側の犠牲者が少なかったことを除けば、詳しい戦果は不明です。
また、ローマ人が命名したとされる「ピクト」は、ラテン語で”刺青をしていた人々”を意味する「Picti」に由来すると言われています。
当時から体を彩色したり、模様を描いたりする文化はすでに存在したため、ピクト人もタトゥーを入れていたかもしれません。
その後、407年にローマ軍が撤退してから、スコットランド地方は群雄割拠の時代に突入しました。
北西部はスコット人の率いる「ダルリアダ王国」が、南部はブリトン人の率いる「ストラスクライド王国」とアングル人の率いる「ノーサンブリア王国」が、そして北東部をピクト人の率いる「アルバ王国」が支配しました。
さらに、8世紀に入ると、東の海からヴァイキングがたびたび襲来するようになります。
ピクト人は、西のダルリアダ王国と東のヴァイキングを相手に抗戦を続けましたが、9世紀(843年の説も)に、ダルリアダ王国の前に屈しました。
そして、ピクト人はダルリアダ王国に吸収される形で姿を消し、ここにスコットランド王国が誕生したのです。
その中で、ピクト文化に関する記録や遺物も消えていき、彼ら自身も”謎のピクト人”としてのみ語られるようになりました。
こうした背景があるために、今回のシンボルストーンの発見は、きわめて重要かつ驚くべきものだったのです。