戦国の世に降り立った「巨大なアフリカ人」
16世紀の戦国時代、日本には、ポルトガルやスペインから西欧人がたびたび訪れるようになっていました。
その中で、アフリカ出身の人々も、奴隷や召使いとして連れてこられたようです。
その一人として、弥助も日本にやってきました。
彼が日本史の記録にあらわれるのは、1579年のこと。
イエズス会のイタリア人宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)の視察に護衛として同行していました。
記録によると、京都に到着した弥助を一目見ようと、大勢の見物人が殺到したといいます。
徳川家康の家臣だった松平家忠も弥助を見たようで、そのときの日記には「肌は墨のようで、身長は6尺2寸あった」と書かれています。
6尺2寸というと、だいたい182センチです。
今は栄養価の高い時代なので、180センチ越えも珍しくないですが、当時の日本人男性の平均身長は157センチ程度でした。
ですから、漆黒の肌と巨大な体格を持つ弥助に、腰を抜かした人は多かったでしょう。
また、信長の一代記である『信長公記(しんちょうこうき)』には、年齢が26〜27歳ほど、牛のような黒い身体に、十人力の剛腕を持っていた旨が記されています。
弥助はどこで生まれたのか?
残念ながら、弥助の出生年や出身地についての記録はありません。
ただ、1627年にイエズス会の司祭が書いた『日本教会史』には、「インドから連れてこられた使用人で、出身はポルトガル領の東アフリカ(現モザンビーク)だった」とあります。
彼の主人だったヴァリニャーノは、来日前にモザンビークに立ち寄り、またインドに長く滞在していました。
しかし、弥助がモザンビークでヴァリニャーノに会ったのか、それともインドで会ったのかはわかりません。
なにはともあれ、ヴァリニャーノとともに来日した弥助は、1581年3月27日、彼の人生を大きく変える運命の出会いを果たします。
かの有名な織田信長に謁見したのです。