信長、「弥助」を大いに気に入る
信長が弥助をたいへん気に入っていたことは、非常に有名な話です。
ヴァリニャーノと共にやってきた巨大な黒人を見たとき、信長は「肌に墨を塗っていると疑い、目の前で服を脱がせ、体を洗わせた」といいます。
しかし、彼の身体は白くなるどころか、一層黒光りしました。
大いに興味を抱いた信長は、ヴァリニャーノと交渉して彼を譲ってもらい、自らの従者にしています。
ここで初めて、「弥助」という名前が与えられました。
歴史家のトマス・ロックリー(Thomas Lockley)氏によると、弥助は当時すでに日本語を少し話せたらしく、アフリカやインドでの経験を語って、信長を楽しませたといいます。
弥助は踊りも得意だったようで、英雄を称える歴史的な叙事詩「ウテンジ(Utenzi)」を披露したという。
ご存知のように、信長は熱心な「能」の愛好家であり、この異国の芸術にも感心したことでしょう。
また弥助には、イエズス会士と違い、日本人の心にキリスト教を持ち込もうという魂胆もありませんでした。
信長は弥助を家族のように寵愛(ちょうあい)し、家臣としては珍しく、一緒に食事をするほどだったといいます。
こうして、信長は正式に弥助を武士の身分に取り立て、「外国人初のサムライ」となったのです。
信長と出会って、わずか1年のスピード出世でした。
日本史から消えた弥助
しかし、時は戦国の乱世。平和な時間はそう長く続きませんでした。
1582年6月21日、明智光秀による謀反「本能寺の変」が起こったのです。
なんとこのとき、弥助も本能寺に泊まっており、明智軍の襲撃に立ち会っていました。
逃げ場をなくした信長はここで切腹していますが、先のロックリー氏によると、自害する前、弥助に介錯(かいしゃく)を願い、自分の首と刀を息子に届けるよう頼んだという。
しかし、その真偽は不明です。
結局、本能寺は明智軍に制圧され、弥助も捕まりました。
ところが、光秀は弥助を処刑せず、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として、南蛮寺(イエズス会によって建てられた教会堂)に送っています。
これが、弥助にまつわる記録の最後となりました。
彼の史料は1582年でぱったり途絶えており、それ以降の消息は一切わかっていません。
一説では、イエズス会に戻り、日本を後にしたと伝えられています。
しかし、弥助の人気は根強く、今でも小説や絵本、漫画、ドラマ、ゲームなどのキャラクターとして登場しています。
また、ハリウッドでの映画化も進んでいましたが、弥助役に起用されていたチャドウィック・ボーズマン氏(近年はブラックパンサー役で人気を博した)の急逝により、制作は一時中断されている模様。
「サムライ魂を持ったアフリカ人の物語」、ぜひとも完成を心待ちにしたいところですね。
記事をありがとうございます。興味深く拝見いたしました。
ところでロックリー准教授の書籍には、推測を織り交ぜてある旨の注釈があるそうです。
次の史実もロックリー准教授の書籍が出典元でしょうか?
>英雄を称える歴史的な叙事詩「ウテンジ(Utenzi)」を披露したという。
>信長は正式に弥助を武士の身分に取り立て・・・
弥助は一人しかいないのに羽柴 秀吉の羽柴のように氏も与えられていないのに侍とは言い張るのは無理があります。家族がおり家長でない場合は氏がない場合もありますが、そうでない場合は侍には氏が必ずあります。
上の人達アサシンクリードで知ったんでしょうけど2022年の記事に今更コメントしても反応は返ってこないと思いますよ