ハーヴグーヴァは「クジラの採餌行動」を描いたもの?
ハーヴグーヴァ(hafgufa)は、中世ノルウェー王・ホーコン4世(在位:1217〜1263年)のために書かれた古ノルド語写本『王の鏡(原題:Konungs skuggsjá)』に登場する巨大な海獣です。
(※ 古ノルド語は北欧諸語の祖先にあたる言語)
ハーヴグーヴァは日本語に訳すと”海の霧”という意味で、以下のような特徴が挙げられています。
・独特な香りを持つ吐瀉物を撒き餌にして、大量の魚をおびき寄せる
・大口を開けたまま静止し、魚の群れが誤って口の中に入り込むのを待つ
・十分な量の魚が口の中に収まると、一挙に口を閉じて丸呑みにする
さらにこれまでの研究により、ハーヴグーヴァの記述に関する起源は、2世紀のアレクサンドリア(エジプト)で編纂された書物『フィシオロゴス』にまで遡ることが確認されています。
この文献には実在の生物のほかに架空の動物たちも多数記載されており、その中にハーヴグーヴァと酷似した海獣「アスピドケロン(aspidochelone)」が登場します。
アスピドケロンも同様に、独特の匂いを発して魚をおびき寄せ、大口を開けて獲物が口の中に入るのを待つと記されています。
見た目や行動の特徴がハーヴグーヴァと共通しており、古代人はおそらく同じ生物をヒントにこれらの海獣を書き残したと思われるのです。
そして研究主任のジョン・マッカーシー(John McCarthy)氏は、これらの記述を読んでいて、あることに思い至りました。
それは2011年頃に科学的に明らかになったクジラのとある採餌戦略です。
この採餌法は「トラップ・フィーディング(trap feeding)」と呼ばれ、ザトウクジラやニタリクジラが行います。
クジラは一般に、ニシンやオキアミの群れを見つけると、大口を開けた状態でそこに突っ込み獲物を捕食します。
しかしトラップ・フィーディングでは、クジラが水面で大口を開けたまま直立し、獲物が口に入ってくるのをジッと待つのです。
このとき、周囲のクジラの仲間たちが魚の群れを中心に追いやるそうですが、魚たちは動かないクジラの口を避難所と勘違いして次々に逃げ込むという。
クジラは頃合いを見計らってガバッと口を閉じ、一挙に大量捕食するのです。
実際に撮影されたトラップ・フィーディングがこちら。
Credit: Surachai Passada, Department of Marine and Coastal Resources in Thailand/phys.org
2021年には上空からその様子を撮影することにも成功し、話題を呼びました。
海洋生物学者であるマッカーシー氏は、中世文学を専門とする同僚たちと議論を交わし、古写本の記述と照らし合わせた結果、ハーヴグーヴァやアスピドケロンは、トラップ・フィーディングを行うクジラに着想を得たものという結論に達しました。
研究者らは、中世の北欧の船乗りたちは海に関する知識も豊富であり、クジラのトラップ・フィーディングについても十分に知っていた可能性が高いと考えています。
では、なぜクジラのトラップ・フィーディングは近年になるまで科学的に発見されなかったのでしょうか?
それについてマッカーシー氏らは、世界的な捕鯨の禁止によるクジラの個体数の回復と、ドローンなどの最新技術を使った綿密な生態調査の増加が関係していると見ています。
捕鯨の起源は古く、9世紀にはノルウェーやフランス、スペインで始まっており、19〜20世紀の乱獲によりクジラが絶滅の危機に直面しました。
しかし近年の積極的な保護活動により、クジラはすっかり息を吹き返し、先日には「クジラが増えすぎたために、オスの求愛方法が”恋の歌”から”ケンカ”に変わり始めている」という研究結果が報告されたばかりです。
つまり、クジラの増加により生態調査がしやすくなったことで、これまで知られていなかった行動が近年になって明らかになっているのです。
また、17世紀以降にハーヴグーヴァが「人魚」や「クラーケン」と混同され始めたのも、捕鯨の増加に伴う個体数の減少により、人々があまりクジラと接さなくなったことと関係しているのかもしれません。
その中で、ハーヴグーヴァは先人の単なる作り話で、実際には存在しない架空の生き物として認識されるようになったのでしょう。
しかし、それ以前の時代には「ハーヴグーヴァ=クジラ」の認識はごく当たり前だった可能性があります。