健康目的ではない江戸時代の禁煙令
このようにたばこは日本に伝わってからすぐに広がっていきましたが、そんなたばこにも試練が訪れます。
1609年に徳川幕府は喫煙の禁制令を出し、たばこを規制しようとしました。
この時禁止されたのは喫煙だけでしたが、その後1612年にはたばこを売買する事や栽培することも禁止されたのです。
先述したように当時の人々はたばこを諸病平癒の薬であると大真面目に信じており、健康に悪いものだと微塵も考えていませんでした。
にもかかわらず、どうして徳川幕府はたばこを禁止したのでしょうか?
江戸時代におけるたばこ禁止の理由は主に3つあります。
1つは火災対策です。
当時の建築物は木と紙が主要な素材であり、火事が多発していました。
まして江戸は世界有数の人口密集地であり、もし火災が発生したら甚大な被害が出るのは確実です。
それ故幕府は火災の原因となるたばこの火を取り締まり対象にしました。
また歩きたばこは厳禁で、女性のくわえたばこによる失火は死刑判決になることもあったのです。
もちろん江戸城も4代将軍・徳川家綱の時に喫煙エリアができるまで全面禁煙でした。
2つは傾奇者対策です。
江戸時代初期は「かぶき者(傾奇者)」と呼ばれる奇抜なファッションを好むアウトロー集団が存在しており、彼らは奇抜な装いで都市部に現れ、たばこを愛好し、大きな喫煙道具を武器に喧嘩をしたりしました。
彼らの反社会的な行動に対して幕府は統制を行っており、その中でたばこも取り締まり対象となりました。
かぶき者たちがたばこをシンボルにしていたことが、当時のたばこの扱いに影響を与えたのです。
そして、これが最大の理由ですが、年貢米の確保です。
江戸時代の納税の基本が米であったため、米の収穫量は幕府にとって非常に重要でした。
しかし、喫煙の風習が広まると農家もタバコ栽培に目をつけ、稲作からタバコへ転作するケースが増えていったのです。
これにより、年貢米の確保が危ぶまれると幕府は危機感を募らせ、たばこ禁止令を出すことになります。
初代将軍・家康から3代将軍・家光までは幕府の態度が厳しく、何度も禁止令が出されました。
一説によると、家光の時には「煙管(きせる)狩り」と呼ばれるたばこの没収活動が行われ、日本橋のたもとには没収された煙管が山のように集められたとされています。
このように幕府はたばこを取り締まっていきましたが、功を奏することは無く、タバコの栽培はむしろ増えていきました。
また諸藩では税収を増やすために、稲作に向いていない中山間部などといった土地にて、タバコの栽培をするという動きもありました。
一部の藩に至っては稲作に向いていない土地を積極的にコメの栽培からタバコの栽培に転換さえしており、幕府の命令などどこ吹く風といった印象です。
そのようなこともあって、1642年ついに幕府は新しく開墾した土地に限定したものの、タバコを栽培することを認めました。