反ソ連の態度を示し、政治への中立を求められた教会
ロシア正教会の起源については諸説ありますが、988年にキエフ大公のウラジーミル1世が公式に正教会の洗礼を受けた時が起源であるといわれています。
なおこの時ロシア正教会は本拠地をキーウ(現在のウクライナ)に置いていましたが、後にモスクワ(現在のロシア)へと拠点を移します。
やがて時代は下りロシア帝国の時代になると、ロシア正教会は教会を監督する国家機関によって牛耳られるようになりました。
これによってロシア正教会は厳しい統制を受けており、多くの聖職者たちは国家からの自由を求めていたのです。
そんな中1917年3月、ロシア帝国は崩壊し、新たに臨時政府が樹立します。
ロシア正教会は千載一遇の機会と言わんばかりに動き出し、200年以上行われてこなかった公式の教会会議を行って今後のことについて話し合いました。
この会議は中断を挟みつつ、翌年の9月7日まで続き、総主教(ロシア正教会のトップ)の選任などが行われたのです。
しかし臨時政府は17年の11月に崩壊し、代わりにボリシェヴィキ(後のソ連共産党)が政権を握ります。
ボリシェヴィキ政権は宗教を敵視していたということもあり、政権を握るとすぐにロシア正教会に対する苛烈な弾圧を始めました。
具体的には教会財産の収奪と教会に対する迫害を行い、1918年2月には政教分離を宣言して教会から法人格と所有権を剥奪し、教会施設と教会資産を没収しました。
1922年5月にはロシア正教会のチーホン総主教が逮捕・収監され、反ソビエト的な態度を放棄することを求められました。
このようにボリシェヴィキはロシア正教会に対する弾圧を続けましたが、ロシア正教会に悪いニュースばかりが続いたわけではありません。
というのもボリシェヴィキは教会会議に政治に対して中立の立場を取ることを確認しました。
それにより信徒はロシア帝国のように教会を政治目的で利用してはならないという原則が採用されたのです。
このため、ボリシェヴィキが行った政教分離を推進する政策に関しては歓迎されたのです。
こうして、ロシア正教会は帝政時代の国家支配から解放され、1920年代初頭には無神論のボリシェヴィキ体制下で「宗教的ルネサンス」を達成することとなりました。