七歳までは神の子
それでは江戸時代の親たちは,血も涙もないサイコパスだったのでしょうか?
しかし江戸時代の親たちの子ども観や人口調節の実態について考察すると、子どもに対して愛情が無かったから平気で間引きが出来た、というわけではないことがわかります。
ここには当時の時代背景と大人たちの生命観が影響しています。
その1つは人口調整の必要性です。
江戸時代の人々は頻発する飢饉や土地の不足、鎖国政策により余剰人口を新しい土地に送り出す余地が限られていたため、人口を調整しなければならないと捉えていました。
とりわけ天明の飢饉では食物不足が深刻で、生き延びるための厳しい選択肢として堕胎・間引きが積極的に取られていたのです。
2つ目は母子ともに死亡率が高かったことです。
江戸時代の出産においては10~15%が死産であり、1歳までの乳児死亡率や5歳までの幼児死亡率が極めて高かったです。
また女性の死因として「難産死」が最も多く、母子ともに出産は命がけであったことが示唆されています。
そのようなこともあって、江戸時代の人々は、子どもの生命観においても現代とは異なる考え方を持っていました。
特に出産や死に対する認識が異なり、「7歳までは神のうちであり、子殺しは子どもを神に返すこと」という生命観が広く共有されていたのです。
七五三という年の節目で子どもの成長を祝う慣習も、こうした当時の考えから生まれたものです。
現代でも中絶に関しては、これを殺人と変わらないと考える人と、社会的な混乱を避けるために必要な医療処置であると考える人たちで考え方がわかれています。
米国では中絶を倫理的な観点から法律で禁止する州なども出ていますが、これを行き過ぎた規制と考える人も多いでしょう。
親がきちんと育児を行えるかどうかは、社会全体の安定にも関わる問題です。そのためどこまでを生命と捉え、間引きの対象とするかは歴史の中で人々が悩んできた問題です。
生まれた子を間引くという方法は、現代の私たちからすれば問題のある行為ですが、出産前の中絶方法が確立されておらず、家庭での出産や死が日常的で死がずっと身近にあった江戸時代では、子どもを間引く行為は中絶の延長として考えられていたのでしょう。