形骸化しつつも、江戸時代を通して続いていた踏絵
江戸幕府は創立以降、何度もキリスト教の禁教令を出していました。
そして1629年、キリスト教徒を取り締まるために絵踏みを導入したのです。
この絵踏みでは幕府はキリスト教のシンボルについて描かれていた絵を領民に踏ませることによって、領民にキリスト教を信仰していないということを証明させていました。
なお踏絵を踏むことのできなかった人は棄教するまで様々な拷問にかけられることとなり、その中で命を落とす人も決して少なくなかったのです。
とりわけキリスト教徒が多くいた九州では盛んに行われ、江戸時代初期の段階では年に数回行われていました。
しかし何度も行うにつれて目立つキリスト教徒は概ね摘発し、残ったキリスト教徒は隠れキリシタンとして地下化したこともあり、絵踏みの効果は徐々に低下していきます。
こうした隠れキリシタンたちは、「たとえ絵を踏んだとしても、内面でキリスト教を信仰していれば何も問題ない」と解釈して絵踏みを行っており、絵踏みによってキリスト教徒を炙り出すということは困難になったのです。
それでも絵踏みがなくなることはなく、江戸時代中期には長崎奉行所で毎年旧正月に絵踏みが行われていたとされます。
当時の長崎の人々はこれを正月の恒例行事としてとらえており、遂には「絵踏み」が春の季語として認められるまでにいたりました。