苦労の果てに白砂糖を作った高松藩、黒砂糖の増産を行った薩摩藩

18世紀中頃、長府藩(現在の山口県下関市にあった、長州藩の支藩)が白砂糖の一貫生産に成功したものの、安定して生産できるようにすることはできませんでした。
砂糖製造の真の輝きは、四国の高松藩(現在の香川県東部にあった藩)において放たれることになります。
1760年代、高松藩に白砂糖製造技術が伝わりました。当時の高松藩は財政状況が非常に悪く、高松藩は財政状況を改善するためにサトウキビの栽培の研究を始めました。
この研究は当初なかなか進まなかったものの、奄美大島からお遍路にやってきた人物のアドバイスなどもあり、1790年に安定して生産できるようにすることに成功したのです。
このこともあって高松藩の領内ではサトウキビの栽培が進み、栽培面積は1836年には1380ヘクタール、幕末には3807ヘクタールにまで拡大していきます。
この白砂糖は「讃岐三盆白」として名を馳せ、やがて日本中にその評判を轟かせていきました。
また薩摩藩も負けておらず、砂糖専売制を強化することによって、黒砂糖生産を拡大していきました。1830年代には薩摩藩の砂糖出荷量は7200トンに達し、全国の51%を占めるに至ったのです。
こうして、18世紀から19世紀にかけて日本国内での砂糖生産は大きく発展し、幕末には国内の砂糖供給量が18世紀初頭の約5万トンから12万トンと2倍以上に増加しました。
そして、砂糖消費量は1人当たり1キロを超えるまでに達し、甘味への欲望は、ついに日本全土を包み込むものとなったのです。