戸が半分しかなかった江戸のトイレ
江戸時代の風俗を詳細に記録した『近世風俗志』によると、江戸のトイレでは半分ほどの高さしかない「半戸」が主流でした。
その理由としてまず考えられるのは、防犯のためです。
というのも当時のトイレは屋外にあり、しかも男女共用でした。
誰でも自由に出入りできるため、不埒者が潜んでいる危険もあったでしょう。
そこで戸を半分にすることで、外から中に人がいるかどうかが一目でわかり、警戒心を高める工夫がされていたというわけです。
実際、現代でもアメリカの公衆トイレには足元が見えるようになっているものが多く、同様の目的を果たしています。
次に考えられるのは、採光のためです。
夜のトイレ利用には提灯や蝋燭が使われたものの、火災の危険を避けるため、月の光を取り入れて薄明かりを確保したかったのではないかとのこと。
火災は江戸の町にとって一大事であり、明かりを得つつ火を避ける知恵が働いたのかもしれません。
また、回転率を高めるためにも半戸は役立ちました。
長屋では住人数に比べてトイレの数が少なく、朝などには使用が集中したのです。
半戸にして中が見えれば「早く出よう」と思わせる効果が期待され、結果として他の住人のための「回転率」が上がりました。
さらに、臭気の緩和も考慮されていた可能性もあります。トイレは肥壺の臭気が立ち込める場所であり、戸が半分なら通気がよくなり、臭いがやや和らぐのです。
最後に、経済的な理由も無視できません。
戸を全て作るよりも、半分にすれば木材が節約できます。
当時、庶民は生活にかかるコストを少しでも抑えねばならなかったのです。
他にも考えられるのは、当時の政治的な要素です。
江戸は幕府の直轄都市であり、トイレの壁が落書きの場になるのは避けたかったでしょう。
恋愛の相合傘ならまだしも、政治批判や不満の言葉が書かれるようなことがあれば、幕府にとって都合が悪いです。
したがって、トイレの戸を半戸にして中を開放的にすることで、落書きや隠れた伝達手段を制限したのではないかと言われています。
また戸が半分だけだったのは江戸だけではなく、尾張(現在の愛知県西部)のトイレでも半戸が使われていました。
尾張藩士の日記には、侍がトイレで用を足すために中にいる老婆に催促し半戸の上からトイレの中を覗いてみたところ、老婆が髪を振り乱して用を足しており、それによって侍が老婆を妖怪と勘違いして斬りかかったという笑えない騒動が記録されています
一方京や大坂といった上方では全戸のトイレが使われており、決して日本全国で半戸のトイレが使われていたわけではありません。
こうしてみると、トイレの戸一つにも、時代や文化、都市の事情が反映されています。
江戸の住民たちは、便所でさえもさまざまな目的や理由のもとに工夫を凝らしていました。
そこには、防犯や臭気対策といった実用的な知恵とともに、政治的な統制をも含む、都市生活者の知恵と工夫が息づいていたのです。