失われた記憶は脳回路の活性化によって復活する
今回の実験に使われたマウスたちはどれも事前に脳の遺伝子を操作されており、光をあてられるとその部位の脳活動が活発化するようになっていました。
研究者たちはマウスの頭蓋骨にドリルで穴をあけ、マウスの記憶が蓄えられている「記憶エングラム」に対して光(レーザー)を照射しました。
記憶エングラムとは特定の記憶に対応して脳内で起こる一連の物理的変化を指す概念です。
わかりやすく言えば、特定の記憶を収めた細胞セットのようなものと言えるでしょう。
今回の実験の場合、恐怖記憶を植え付けられる前と後のマウスの脳を比較すると、ニューロンの接続状態が物理的に変化して、特定の細胞群(細胞セット)において電気生理学的な変化が起こることが確認されています。
言葉を変えれば「恐怖ハウス」と名付けられた細胞セット(記憶エングラム)がニューロンの再配線によって脳内に出現した状態と言えます。
近年の脳科学の急速な進歩により、特定の記憶を持つ前と後での脳回路の微妙な変化を検知できるようになってきました。
記憶エングラムの形成や変化を検知する技術は記憶のありかを突き止めるための重要な技術とされています。
もし頭部打撃が記憶エングラムを形成する細胞群を死滅させてしまっているならば、その部位を活性化させても記憶は戻って来ません。
しかし研究者たちがマウスの脳を分析したところ、頭部打撃の前後でニューロンの総数に変化が起きてないことが確かめられます。
実際、今回の実験でも、記憶エングラムを作る細胞群を活性化させられた記憶喪失マウスたちは、恐怖記憶を復活させ、恐怖ハウスに対して通常のマウスを同じフリーズ反応を起こすことが確認されました。
このことは、高頻度頭部衝撃に起因する記憶喪失は、該当する記憶回路のピンポイントの活性化によって回復することを示しています。
さらに研究者たちが頭部打撃を受けたマウスたちの脳を分析したところ、記憶エングラムを形成するニューロンに異常が起きており、記憶エングラムニューロンと非記憶エングラムニューロンの区別が上手くできなくなっていることが示されました。
記憶を形成するニューロンは適切な相手と回路を形成することで、特定の記憶(記憶エングラム)を形成します。
もしニューロンが記憶と関係ないニューロンと接続してしまうと、記憶を形成する回路に障害が発生し、記憶の形を維持できなくなってしまいます。
再び細胞セットで例えるならば、細胞セットに収められていた導線がどこに繋がるべきかを見失い、全く関係ない記憶の細胞セットに接続してしまっている状況と言えます。
このような接続の無秩序化は、ネットワークの形を乱し、情報への正常なアクセスを阻害します。
つまり記憶を形成する母体となるニューロンのセットが全て健在であっても、ネットワークが滅茶苦茶になれば、記憶は取り出せなくなってしまうわけです。
今回の研究では、このような状態にあるマウスに対して、記憶エングラムを形成する細胞群の活性化が試みられ、結果的に記憶が蘇りました。
このことは、接続が乱れてしまっても、記憶を担う細胞群が高度に活性化させられる状況になれば、脳は配線を組みなおして、記憶エングラムを復元できることを示しています。
映画やドラマでは恋人に関連した強いショックによって、恋人の記憶が蘇るシーンがみられますが、このようなシーンは脳科学的にみても、あながち間違えとは言えないのかもしれません。
研究者たちは今回の研究成果が、頭部への衝撃によって記憶障害に悩まされている人々の治療薬開発にとって有益だろうと述べています。