今はまだ鏡の世界にだけ存在する「鏡像細菌」
鏡像とはどういう意味か?
生命に必須な分子は、左右の「手」のような鏡像関係を持つ2種類が存在します。
鏡像関係にある分子は、一見すると同じように見えますが、左右の手のように決して重なることがありません。
特に生物の世界では偏りが決定的であり、自然界に存在するDNAは「右巻き型」で、アミノ酸やタンパク質は「左利き型」のみが使われていることが知られています。
この組み合わせは地球上すべての生物に共通する特徴であり、そうではない生命は存在しないと言われています。
良く言われる説としては、「全生命の祖先となる地球最初の生命が誕生したとき、その生命がたまたまDNAが右巻き型でアミノ酸やタンパク質が左利き型だった」というものがあります。
鏡像関係にある分子は性質もほぼ同じことが知られており、最初の生命が逆を選ぶ可能性も十分にあったかもしれないからです。
しかし近年、合成生物学者たちは、この「左右」をひっくり返すことに成功しており、右利きアミノ酸を組み合わせて鏡像タンパク質を作り出しています。
合成生物学は、生命システムを「設計し直す」学問領域です。
自然界で進化した生物の仕組みを分子単位で理解し、その遺伝子や代謝経路を自由に組み替えることで、自然には存在しない機能や特性を持つ生物を創り出そうとします。
これによって、従来のバイオテクノロジーでは困難だった新薬・新素材の開発などが可能になると期待されています。
また合成生物学の究極の目標の1つに、人工的に無から生命を構築する「生命創造」も含まれています。
そのため体内の全ての生体分子が鏡像関係にある新生命の創造も合成生物学では注目される分野となっていました。
その結果、いくつか興味深い事実も判明しています。
例えば、鏡像細菌を形作る鏡像タンパク質は、既存の生物の酵素では容易に分解されず、体内に長くとどまる性質があることが示されています。
生物の酵素は特定の構造を認識することで効率がいい反応を引き起こしますが、既存の酵素は全て左利きタンパク質を認識するように作られている為ため、鏡像となる右利きタンパク質を上手く認識できないからです。
この特性は新しい医薬品開発に有利であり、HIVやアルツハイマー病といった疾患の治療を、より長時間作用する薬剤で行える可能性を秘めています。
また2022年には、中国の研究者が「鏡像遺伝子」を読み取り、「鏡像RNA」を産生する鏡像酵素の開発にも成功しました。
この酵素があれば、適切にDNAを設計することで、さまざまな種類の鏡像細菌を作成できるようになります。
専門家は、こうした技術が10~30年後には完全な「鏡像生命」創造へと発展し得ると予想しています。
シドニー大学の化学者リチャード・ペイン氏は、「鏡像生命体の誕生は、この分野の究極の目標です」と期待を語ります。
しかし、この可能性は同時に重大なリスクもはらんでいます。
鏡像細菌を絶対に誕生させてはいけない理由
通常の細菌とは正反対の化学的性質を持つ鏡像細菌は、自然界での天敵や捕食者に対して驚くべき耐性を発揮します。
鏡像細菌は天敵となるアメーバなどが有機物を消化・分解する際に使う分子が効かないため、捕食に対して極めて強い耐性があるからです。
もし鏡像細菌(鏡像セル)が川や土壌に紛れ込めば、誰も捕食や消化ができないため、その増殖を食い止める生物はいません。
(※鏡像細菌を食べた天敵たちも鏡像細菌からエネルギーを得ることはできません)
結果として環境には既存の生物が使えない右利きアミノ酸や右利きタンパク質が増加し、在来種を餓死に追いやったり、生態系そのものを支配する危険性があります。
進化生物学者ディーパ・アガシ氏は、このような環境破壊と生態系混乱が「かつてないほど壊滅的な影響をもたらし得る」と警告しています。
生態学的観点から見ると、鏡像バクテリアは全生命にとっての侵入種(外来種)のように振る舞うことで生態系を混乱させる可能性があります。
さらに問題なのは、鏡像細菌が突然変異と進化を経て、厄介な脅威へと変貌する可能性があることです。
私たちの免疫システムは「右利きDNA」や「左利きタンパク質」を前提としているため、その逆手である鏡像生物を簡単に見分けられません。
そのため現在の地球に存在する捕食者や免疫システムは、理論上、彼らに対処できない可能性があります。
植物さえも、鏡像細菌を感知することができず、打つ手がない状態になるでしょう。
研究室に備えられた安全機構は、リスク低減に役立つ一方で、ゼロにすることはできません。
実験室での事故やヒューマンエラー、そして意図的な悪用によって、鏡像生物が拡散される可能性は消せないのです。
技術が兵器として利用されれば、対抗手段の乏しさから、人類は前例のない危機に直面するかもしれません。
(※もし鏡像の左手型タンパク質分子で構成された人間が生成されてしまった場合、その人物は通常の右手型タンパク質で構成された人間との間に子供を残せない可能性もあります)
専門家は鏡像バクテリアを攻撃する「鏡像ファージ」ウイルスなどの対策を検討していますが、それでも不十分な可能性が高いといいます。
新たな「鏡像抗生物質」の開発も議論されていますが、鏡像パンデミックが起きた後では手遅れになるかもしれません。
そのため、研究の規制や監視が、今求められているのです。