解剖の天才、ジョン・ハンターの登場
18世紀イギリスの医者は主に、医薬に精通した内科医か、手術を行う外科医のどちらかに分かれていました。
しかしいずれも古くからの言い伝えや俗説にどっぷり浸かっており、今の基準ではまったく間違った治療をすることも少なくなかったのです。
例えば、血液を無理に抜き取る「瀉血(しゃけつ)」などがそう。
モーツァルトはリウマチ熱を治療するために何度も瀉血をされ、どんどん衰弱し、1791年に帰らぬ人となっています。
このように西洋医術は数百年の間ほとんど停滞したままでしたが、そこに現れたのがジョン・ハンターです。
ジョンは1728年2月13日にスコットランドの農村に生まれました。
幼い頃から学校での勉強に興味をもたず、屋外で虫や動物を追いかけて集めることに夢中だったといいます。
おそらく、この頃から「生き物の体がどんな風に作られているのか」に興味を持っていたのでしょう。
彼はのちにロンドンで医師として成功していた10歳年上の兄ウィリアムの元で助手として働くようになります。
そこでジョンは兄ウィリアムが開いていた解剖講座に使う新鮮な遺体を集めるという、血生臭い仕事を一手に担当しました。
そうしてジョン自らも解剖に熱中する中で、兄ウィリアムを遥かに凌ぐ解剖の才能を発揮します。
その後、彼はセント・ジョージ病院の外科医となり、午前中は治療費を払える患者を診て、午後は貧しい人たちを無料で診察する日々を送るようになりました。
さらにジョンは「若い外科医たちをもっと育てなければ」と思い立ち、学生を相手に夜間講座を開きます。
ここでちょっと変わった奇人エピソードがあります。
ある晩、夜間講座に学生が一人しか出席していないことがありました。
するとジョンは骨格標本を一体引っ張り出して席に座らせ、いつものように「諸君」と呼びかけて講義を始めたのです。
彼はその時点で1000体以上の解剖を経験しており、人体の内部について究めて詳しくなっていました。
そして学生たちには「解剖は外科医学の基礎であり、解剖こそが頭に知識を、手に技術を与え、さらに外科医に必要なある種の残酷さに心を慣れさせるのだ」と教えています。
ただ問題はジョンが何よりも解剖を重視したため、解剖の練習用に大量の遺体が必要になったことでした。
そこでジョンは過激な裏の一面を見せるようになります。