そろばんと塵劫記によって動き出した日本数学

この時代、日本の数学は中国からの輸入品でした。
奈良時代の役人たちは、北中国からの数学書をありがたく模倣して、律令政治の維持に活用していたとのこと。
実際、平城宮跡から出土した木簡には、「九九」が記されており、これが中国の『孫子算経』から影響を受けたものだと判明したのです。
当時の数学は単なる計算技術だけにとどまりません。
田畑の測量や納税計算、さらには天体の運行まで、その用途は広がっていました。
さらには『万葉集』においても、九九が詩の表現に利用されるなど、文化面でも数学が彩りを添えていたのです。
「八十一」と書いて「くく」と読ませる粋な技法。
古代の数学者たちは、実用と文化の狭間を軽やかに行き来する貴族のような存在だったのでしょう。
しかし、鎌倉から室町時代にかけて、日本数学界にはさほどの変化はありませんでした。
そして時は流れ、運命の転機が訪れます。
それは豊臣秀吉による朝鮮出兵でした。
歴史的には失敗とされるこの遠征、しかしながら、その陰でそろばんなる異国の道具が日本に舞い降りたのです。
それまでの日本にもそろばんがなかったわけではないものの、これ以降そろばんの輸入が本格的にはじまり、日本数学会の止まっていた歯車が動き出しました。
さらに1627年、吉田光由(よしだみつよし)が『塵劫記(じんこうき)』なる本を出版します。
この本、単なる数学書ではありません。
タイトルには「塵」と「劫」という仏教用語が含まれ、微小(塵)から巨大(劫)までの数字の世界観を表しているのです。
これは読ませるための工夫が色々されていて、田畑の面積計算や川や堤の工事に関する問題、さらには娯楽的な問題まで、多岐にわたる題材を取り入れており、出版されるや否や大ベストセラーとなり、版を重ねるうちに、粗悪な類似品(海賊版)までもが生まれました。
吉田自身この海賊版に頭を悩ませ、真に数学について考える者が読むように「未解決問題を巻末に載せる」という対策を講じました。これが後に多くの数学者たちの研究意欲を掻き立てる結果となったのです。
さて、江戸時代になると、数学は実用性を超え、文化的な営みへと昇華します。
読み書き算盤が広まり、個人塾が隆盛を極めたのです。
武士たちも農民たちも、皆が算術に勤しむ様子は、さながら日本全体が数学塾と化したかのようであります。
しばらくして、日本独自の数学「和算」が花開き、物語はその黎明を迎えました。