推定4万5000人の魔女を殺害した中世ヨーロッパ社会

魔女狩りの狂騒は、一様に広がったわけではなく、地域ごとに波がありました。
最初の魔女裁判は14世紀から15世紀初頭にかけて、フランスやスイスで幕を開けたのです。
中でもドイツの熱狂ぶりは特筆に値します。
ある研究者によれば、魔女裁判の犠牲者は4万5000人に及び、その四割がドイツに集中していたとのこと。
さて、なぜドイツは魔女狩りの巣窟となったのでしょうか。
その理由は多々あります。
宗教対立、気候変動、三十年戦争、小国の乱立など、不安定要素が折り重なった結果、人々の心には恐れが染みついたのです。
なお、カトリックとプロテスタントでは魔女の定義が微妙に異なりました。
カトリックは、災厄をもたらす実害ある魔女の存在を認めたものの、プロテスタントはこれを神の試練と捉え、魔女を神への冒涜者としたのです。
しかし、両者とも「魔女は根絶すべし」という点では一致していたのだから、魔女にとってはどちらも地獄であったことに変わりはありません。
だが、時代は理性を求め始めます。
18世紀になると、啓蒙思想が広まり、魔女裁判の正当性が揺らぎ始めたのです。
科学の発展が魔術の幻想を覆い、社会もまた混乱を脱し、魔女を生贄とする必要がなくなりました。
こうして、狂気の時代は幕を閉じ、最後の魔女狩りは18世紀末、スイスとポーランドにて行われたのです。