多くの女性が住んでいたハレム

オスマン帝国のトプカプ宮殿を思わせる、壮麗な宮殿の一角に設けられたハレムは、初めは王の移動に伴い、旅の途中で設置される臨時の宿泊施設に過ぎませんでした。
しかし、時を経るごとにその役割は拡大し、王宮内部に恒常的な一大組織として固定化されていったのです。
だが、このハレムという存在は、単に「女性が隔離される場所」という単純なものではなかったのです。
むしろ、そこは王の側近としての女性たちや、貴族の子ら、そして奴隷や奉公人が、各々の役割を持って暮らす小宇宙でした。
例えば、サファヴィー朝のある時代には、ハレム内には300名から400名の女性が、さらに100名余りの宦官や200名の侍従とともに、その巨大な組織を形成していたといいます。
女性たちはその身分に応じ、『ベグム』『ハーヌム』『ハートゥーン』といった呼称で呼ばれていました。
彼女たちの地位や役割は微妙に階層化され、まさに一国一城の縮図をなしていました。
また、ハレムは王が移動する際に同行することが通例であったため、固定された存在というよりは、むしろ王の旅に合わせて動く流動的な存在でした。
前期には戦闘に備えてハレムと王が別行動を取ることもあり、地方都市には滞在用のハレム施設が整備されるなど、その運用は非常に柔軟でした。
ときには、未婚の女性王族が私邸に住むなど、一筋縄ではいかない多様な運命を辿っていたのです。
そして、ハレムの物語は、単に華やかな内装や組織の壮大さだけでは語り尽くせません。
中には、医療や宗教、さらには音楽や舞踊に従事する働く女性たちの存在もありました。
イスファハーンのチェヘル・ソトゥーン宮殿の宴会では、彼女たちが奏でる旋律とともに、異国からの使節たちをも魅了したといいます。
だが、その裏側では、出自も運命も定められぬ女奴たちが存在していました。彼女たちは売春宿と結びつく形で、ハレムと市中の生活との境界を曖昧にし、哀愁を帯びた現実を生み出していたのです。
このようにハレムは大奥と非常に似ている面がありますが、異なっている点もあります。
ハレムでは、女性は奴隷的な立場から入り、皇帝との法的な婚姻は認められず、子を産むことで地位が上昇する仕組みが特徴です。
例えば、皇帝の母となれば「ヴァーリデ・スルタン」となり、正式な妻ではなく側室であっても絶大な影響力を持つ存在となりました。
一方、大奥では、採用者は生け花や裁縫の実技試験や面接を経て選ばれるため、より制度的かつ比較的自由な出入りが可能な環境が整えられていたのです。
またハレムは、政治的権力の象徴として固定された閉鎖空間であり、皇帝の権威や後継者問題と密接に結びついた厳格な序列が存在しました。
対して大奥は、将軍家の私的な奉公機関として機能し、主に文化・芸事の面が重視され、短期間で在籍する者も多いなど、より流動的な性格が際立っています。
このように、ハレムは皇帝権力の専制と結びついた閉鎖的な階層組織であるのに対し、大奥は選抜の制度と流動性が特徴で、出身や在籍期間にも違いが見られるといえるでしょう。