3割の患者が救われない… だからこそ笑気ガスに注目する理由

うつ病は、世界中で数多くの人の心を重くする疾患です。
ときには人生を彩る色が一気に褪せてしまうかのように、気力や意欲を奪い、何気ない日常を苦しく感じさせます。
さらに厄介なのは、多くの抗うつ薬が効き始めるまで数週間かかる場合があるうえ、患者のうち約3割は十分な効果を得られない「治療抵抗性うつ病」に悩まされていることです。
こうした背景のもと、近年注目されているのが「即効性をもたらす可能性を秘めた薬」です。
中でも静脈麻酔薬ケタミンが一足先に脚光を浴び、短時間で症状を改善する様子が報告されてきました。
しかし、ケタミンと同様に古くから麻酔に使われてきた笑気ガスには、従来「鎮痛・鎮静作用」以外の大きな特徴があるのではないかと、密かに期待の目が向けられていたのです。
笑気ガスが歴史の舞台に登場したのは18世紀。
もともとは歯科治療などで使われ、「ヒッピークラック」というあだ名で娯楽的に吸入されることすらありました。
笑気ガスという名称は、吸入すると人々が自然と笑い出す現象に由来しています。
18世紀後半、科学者たちはこの無色でほのかに甘い亜酸化窒素に触れ、その一風変わった作用に驚嘆し、冗談めかして「笑いを誘うガス」と呼ぶようになりました。
今日では「笑気ガス」として親しまれる一方、医学や食品業界でも広く用いられており、正確な化学的名称は亜酸化窒素(N₂O)です。
このガスが脳に及ぼす影響は、まるで奥深い神経回路の中で隠されたスイッチが一斉にオンになるかのようです。
笑気ガスは、脳内のNMDA受容体と呼ばれる部分に作用して、その働きを一時的にブロックします。
これにより、快感をもたらす神経伝達物質、例えばドーパミンの放出が促進され、心が軽やかになり、笑いが自然とこぼれる状態を作り出します。
また、笑気ガスは単に鎮静効果を示すだけでなく、脳の深部に位置するニューロン—例えば特定のLayer 5の細胞—を活性化することで、普段は静かだった神経細胞群に新たな活力を吹き込む作用も持っています。
まるで、暗闇に包まれていた部屋の照明が一瞬で点灯するかのように、脳内の活動が急速に再起動するその様子は、科学者たちにも大きな驚きを与えています。
このような神経作用は、笑気ガスが従来の麻酔効果を超えて、心の病と闘う新たな治療法として期待される背景の一端を担っているのです。
一方で近年の小規模な臨床研究では、治療抵抗性うつ病の患者に対して短時間で症状を緩和するかもしれないという報告もなされています。
ただし、なぜそんなに短い時間で脳に変化を起こせるのか、その“本当の仕組み”は詳しくわかっていませんでした。
脳の働きは、まるで無数の小部屋が入り組んだ巨大な館のようなものだと考えるとわかりやすいかもしれません。
うつ病が進むほど、一部の小部屋に鍵がかかったり照明が落ちたりして、全体が暗く沈んでしまいます。
従来の抗うつ薬は、いわば慎重に一つひとつの扉を開け直すようなもので、時間がかかりがちでした。
ところが、笑気ガスは“どこか決定的な部屋”への鍵を素早くこじ開ける力を持っているようなのです。
そこで今回研究者たちは、ストレス状態にあるマウス脳の活動を詳しく追跡しながら、笑気ガスが帯状皮質(前頭前野の一部)の特定のニューロンをどのように変化させるのかを細胞レベルで観察することにしました。