うつ病治療に“電撃”の新星現る? 笑気ガスの意外なチカラ

今回の実験は、まずマウスに「慢性的なストレス環境」を与えるところからスタートします。
たとえば水にストレスホルモン(コルチコステロン)を溶かし、毎日それを飲ませる。
あるいは、力の強いマウスがいるケージの近くに長時間置いて、“外的脅威”を定期的に感じさせる。
そんな状況に晒され続けたマウスは、日を追うごとに意欲を失い、落ち込んだような行動が増えていきます。
これは人間のうつ病に似た状態を再現する方法として広く用いられています。
ストレスまみれのマウスが“元気をなくしている”ことを確認すると、今度は脳の中を覗き見るために「2光子カルシウムイメージング」と呼ばれる最先端の顕微鏡技術を使います。
イメージとしては、脳の特定の領域に細胞の活動を光で捉えるセンサーを埋め込み、そこをハイスピードカメラで撮影しているようなものです。
脳の深いところで神経細胞がどのくらい活発に働いているか、リアルタイムで“生放送”できるわけです。
観察対象となったのは、帯状皮質(Cg1)と呼ばれる前頭前野の一部。
ヒトの思考や感情をコントロールする領域に近い機能を持つと考えられ、いくつかの層(Layer)から構成されています。
なかでも研究チームが着目したのは、深い階層であるLayer 5の錐体(すいたい)ニューロンという細胞群でした。
ストレスを受け続けたマウスでは、まるでブレーカーが落ちた部屋のようにLayer 5の活動がガクッと下がってしまうことがわかっています。
ここで登場するのが「笑気ガス(N₂O)」。
研究チームは意欲を失ったマウスに笑気ガスを吸わせ、そのときのLayer 5がどんな変化を見せるのかを綿密に観察しました。
するとどうでしょう。
暗く沈んでいたこの深い層の細胞たちが、一気に活動を取り戻す様子が確認できたのです。
しかも、ガスを吸っている最中だけでなく、吸引が終わったあともしばらく持続しました。
研究チームはマウスの行動テスト(尾を持ち上げられたときにどれだけ動こうとするか、甘い水をどのくらい好むか、など)を行い、笑気ガス吸入後にうつ病様行動が大幅に改善されることも確認しています。
さらに注目すべきは、NMDA受容体を強力にブロックする薬剤や遺伝子操作を施しても、笑気ガスによるLayer 5活性化がほとんど損なわれなかった点です。
つまり、笑気ガス自体にはNMDA受容体拮抗作用があるものの、少なくともこの深い層の活性化を引き起こす主因は別のルート(SK2チャネル阻害)にある可能性が示唆されました。
より詳しく調べてみると、脳細胞の興奮を調整する『SK2チャネル』が笑気ガスによってブロックされ、結果として神経細胞が興奮しやすいモードになったのではないかという結論に至ったのです。
これらの結果は「笑気ガスが脳深部の錐体細胞をスイッチONにし、それがうつ症状を短時間で和らげる」という仮説を複数の実験で裏付けるていることになります。
この発見が革新的なのは、笑気ガスが“単なる麻酔ガス”から“脳回路を瞬時に活性化し得る新たな治療オプション”へと役割を広げるかもしれない点です。
従来の抗うつ薬は徐々に神経伝達物質を増やして脳内バランスを変えていきますが、笑気ガスでは短時間で鍵をこじ開け、活動レベルを底上げするというダイナミックな効果が明らかになりつつあります。