「人間が一瞬で蒸発した」は科学的にありえるのか?

原爆の閃光を浴びた後、人や物のシルエットが建物や地面に焼き付いて残る——この事実は当時人々に大きな衝撃を与え、広島・長崎に起きた悲劇を今に伝える貴重な記録となりました。
広島では実際に街中の歩道や壁、橋など様々な場所でこうした「影の跡」が報告されています。
広島市内の住友銀行前の石段に残った人影は特に鮮明であることから、1971年に石段ごと切り取られ、広島平和資料館に保存されることになりました。
爆心地から約260mという近距離で被爆したその石には、長年にわたり多くの人々が「原爆で蒸発した人の痕跡」として注目してきました。
平和学習などで「爆心地付近では人間が一瞬で蒸発し、影だけが焼き付いた」という話を聞いたことがある人は少なくないでしょう。
実際、広島市がまとめた公式記録にも「爆心地から半径500m以内の地域では…ほとんど蒸発的即死に近く…死体も骨片もあまり見当たらないほど焼き尽くされていた」との表現があります。
また、2005年のBBCのドキュメンタリー番組でも、石段に座っていた男性が閃光と同時に煙のように消えてしまうCG映像が描かれました。
こうした描写も手伝って、「原爆の熱で人が跡形もなく蒸発し、その“残り”が石に焼き付いたのだ」というイメージが語り継がれてきたのです。
ですが、この「人体蒸発説」は科学的にはかなり無理があります。
原爆が炸裂した瞬間、火の玉の中心部は推定で数十万度にも達しました。
起爆直後のマイクロ秒からミリ秒の間は、これよりも高い数千万度に達していたと考えられています。
地上もまた瞬く間に灼熱地獄と化し、爆心地直下では数千度(およそ摂氏3000〜4000度)という猛烈な高温に見舞われました。
常識的に、人間は100℃の熱湯にも耐えられないのですから、それをはるかに上回る高熱にさらされれば跡形も残らないように思えるかもしれません。
しかし、人体の約6割前後は水分であり、それをすべて蒸発させるには膨大な熱量と時間が必要です。
(※人体の水分比率は成人男性では平均して60~65%、女性では55~60%程度とされています)
研究による試算では、体重78kgの成人を完全に蒸発させるのに必要なエネルギーは約299万キロジュールと報告されています。
これはTNT火薬に換算して約710kg分に相当するエネルギーですが、その膨大な熱をごく短時間で体全体に均一に注ぎ込まなければ、人間を完全に気化させることはできないと指摘されています。
要するに、現実の原爆がそのような“魔法”を起こすには至らなかったのです。
また、「炭化した人間が背後の石に焼き付いた」という説もしばしば聞かれますが、これも事実とは言えません。
蒸発と同じく人体を一気に炭化させるには、熱が深部まで行き渡るだけの時間とエネルギーが必要です。
しかし、原爆の熱線はあまりにも瞬間的で、表皮を超えて深部まで作用するには至りません。
熱量の合計は「照射時間×熱流密度」と考えられるため、いくら高温でも照射時間が短ければ物体を十分に炭化させることはできないのです。
では何が「人の影」を石に焼き付けたのでしょうか。