脳の地図はどう作られたのか

この成果は、突然ひらめいて生まれたものではありません。
背景には、すでに進んでいた大規模な脳研究があります。
2024年、研究者たちはまず、ショウジョウバエの成体の脳について、ほぼすべての神経のつながりを調べ上げました。
その数は、13万9,255個の神経細胞と、5,450万のつながりにのぼります。
これは、成体の動物の脳としては、当時もっとも大きく、もっとも詳しい地図でした。
この作業は、想像以上に地道なものです。
顕微鏡で撮影された膨大な画像をもとに、どの神経がどこにつながっているのかを一つずつ確かめていきます。
人工知能の助けを借りながらも、最後は人間が確認する必要があり、膨大な手間がかかったとされています。
こうして完成したのが、いわば「脳の配線図」です。
さらに同じ2024年には、この大きな資源を土台にして、別の段階の研究も進みました。
こちらは、脳の中心部分の詳しい接続情報などをもとにした脳全体の計算モデルで、12万5千を超える神経細胞と、5千万のつながりを使っています。
ここでは、神経の細かい形まで再現するのではなく、信号がどう流れるかに注目しています。
それでもこのモデルは、食べる行動や身づくろいに関わる神経活動や出力が、どのような信号の流れで生まれるかをかなりうまく予測できるまでになりました。
つまりこの時点で、研究者たちは「脳の地図」と「その地図を土台にした計算モデル」の両方を手に入れていたことになります。
ただし、ここにはまだ大きく欠けている部分がありました。
それは、体です。
脳モデルに「仮想の体」をつけたら何が起きた?

どれだけ脳の中で信号が走っても、それを受け取って動く体がなければ、外から見れば何も起きていないのと同じです。
例えるなら、頭の中で完璧に作戦を立てているのに、実際には一歩も動けない状態です。
そこで今回イーオンが行ったのは、この脳に仮想の体を与えることでした。
具体的には、コンピューターの中でハエが感じる刺激を再現し、それを脳モデルに伝えます。
脳はその情報を受け取ると、自分の配線図にしたがって体へ向かう信号を出します。
すると仮想空間のハエは実際に動き出し、歩いたり、身づくろいをしたり、食べたりという行動をとるようになります。
さらに面白いのは、その行動がまた新しい刺激として脳に戻ってくることです。
ハエが前に進めば周囲から入る刺激が変わり、体が汚れればその情報が感覚として脳に伝わります。
これにより、「感じる」「考える」「動く」「また感じる」という、生き物らしい行動の輪っかが完成します。
映像の中でハエが食べ物へ向かうのも、ただの演出ではありません。
甘い刺激が足や口に伝わった結果、脳の中で「食べる行動」を引き起こす信号が生まれます。
体にほこりがついたときに身づくろいをする動作も同じで、触角まわりに届いた感覚が身づくろいの回路を刺激しています。
会社の技術説明によると、この循環は千分の十五秒ごとに細かく繰り返されているといいます。
仮想世界のハエが滑らかに動いて見えるのも、この速いやりとりが裏側で続いているおかげなのです。
これまで脳と体をつなげた研究自体は、他にもいろいろありましたが、多くの場合はあらかじめ人間が「こう動いてね」と教えたり、人工知能に「強化学習」という方法で学ばせたりしたものでした。
いわば、動きの裏付けが人工知能ベースで、生物の実際の脳の配線そのものには直接依存しないものでした。
しかし今回の実験では、あくまで「本物のハエの脳の配線図」を中核に信号を体を動かす制御の仕組みへ渡す形でした。
そのためイーオンは「これはちょっとした改良ではなく、質的にまったく違うレベルに達した」と位置づけています。
仮想の体も、いわゆる「それっぽい動き」の人形ではありません。
イーオンの技術解説では、公開済みの身体モデル「ニューロメックフライ」を土台にし、ハエの体を精密な三次元モデルとして作り、87の関節が独立に動くとしています。
動かす舞台には、物理シミュレーション環境「ムジョコ」が使われています。
つまり、足が床を押せば反作用が返り、摩擦が足取りを左右し、姿勢が崩れれば転びます。
脳からの合図が、こうした物理法則の制約を受けるところまで再現したわけです。
今の限界と見えてきたこと

ここまで読むと、「ついにハエをまるごとコンピューターに入れたのか!」と思うかもしれませんが、実はそう簡単ではありません。
会社自身も正直に「まだ発展途上」だと認めています。
たしかに今のモデルでは、歩く、食べる、身づくろいするといった「ハエっぽい動作」は再現されています。
しかし、本物のハエが持つ行動の複雑さに比べれば、これらはごくわずかな種類の動きに過ぎません。
また脳の中身についても、100%完璧に、寸分たがわず再現したわけではありません。
ハエが何かを覚えたり、学習したりする仕組みもほぼ入っておらず、視覚情報の多くも行動への影響がまだ限られています。
お腹が空いているのか満腹なのか、危険な経験をしたばかりかどうか、といった生き物としての「内側の状態」――つまり脳内の神経伝達物質の細かな要素も十分には考えられていません。
それでも、このニュースを軽く見てはいけません。
今回の実演は「仮想の脳の中で起きていたこと」を、体の動きとして外へ出せることを示したからです。
また今回の研究を通じて「脳の配線の形そのもの」が驚くほど多くの行動の骨格を持っていた可能性が見えてきた点も見逃せません。
完璧なものとは言えませんが、画面に映るハエは人間から見ても「ハエらしい行動」をとっていました。
実際同社は、使ったのは、神経細胞どうしのつながり方、つながりの強さの目安、興奮させるか抑えるかという神経の性質、そしてごく単純化した神経細胞の発火の計算ですが、この仮想ハエはそんな単純な材料だけで91%の行動一致率を出したと報告しています。
(※ここでいう91%は、元の Nature 論文で報告された 164件の予測のうち91%が実験結果と一致したという意味です。)
言いかえると、細かな生化学の再現を全部盛り込まなくても、脳の配線そのものに、行動を形づくる情報「ハエっぽい動き」がかなり深く刻み込まれている可能性が見えてきたわけです。
ここは、脳研究としても、将来の脳アップロード論としても、かなり刺激の強い点です。
実際、イーオンはこのデジタルのハエを「本物のアップロードされた動物」だと言い切りました。
ただ、それが何を感じているかは誰にも分からない、とも同時に認めています。
また今回の成果は、脳をまねる技術の見え方を少し変えます。
これまでは「本物らしい行動を出すには、脳の中の細かな化学反応や学習の積み重ねまで全部入れなければ無理なのではないか」と思われがちでした。
もちろん最終的には、そうした要素も重要です。
ただ今回の結果は、その前の段階として、脳の大きな配線図だけでもかなりのところまで感覚と運動の流れを作れるかもしれない、と示しました。
会社が「これは小さな改善ではなく、一つの境目だ」と強い言葉で語るのも、そのためです。
ハエの次はマウスへ!この技術はどこまで行けるのか?
では、この「脳のコピーで動く技術」は、今後どこまで進むのでしょうか?
イーオン・システムズが次に狙っているのは「マウスの脳」です。
マウスの脳はハエの脳よりもはるかに複雑で、神経細胞の数はおよそ7,000万個と、ハエの約560倍にもなります。
当然ですが、これは一気にハードルが上がります。
しかしイーオンの研究チームは、次の段階に向けて、マウスの脳の詳細な配線図を作るためのデータを集め始めています。
実際にマウスの脳の中で神経がどのように活動するのかを詳しく記録し、「動くマウス脳」をデジタル空間に作り出そうというわけです。
会社は「ハエで感覚と動きの輪を作れたのだから、次のマウスが成功するかは『ハエでやったことを大きくしていく』というスケールアップの問題だ」と考えています。
この見立てが当たれば、話は一気に変わります。
脳の「配線の形」が情報のかなりの部分を抱えているのなら、必要なのは超精密な一細胞の再現ではなく、巨大な配線図と、それを動かす計算資源の拡大になります。
もちろん、ハエからマウスへの飛躍は簡単な話ではありません。
ましてや、その先にある「人間の意識をコンピューターに移す」というSFのような話までをすぐに信じ込むのは早すぎます。
それでも今回のハエの成功には、決して小さくない重みがあります。
イーオンは今回の存在を「本当にアップロードされた動物」だと呼んでいます。
これまで空想科学やSFの世界で語られていた「脳のアップロード」という夢物語が、たとえ小さなハエの姿だとしても、はっきりとした現実の映像になったのです。
長いこと夢だった「意識のデジタル化」という大きな問いは、空想だけで片づけられない段階に入りつつあるのかもしれません。
ですが研究者たちの目標はそこでは終わりません。
イーオンは自分たちの取り組みを、挑戦的な言葉で飾ります。
「脳アップロード」という表現も、その一つです。
実際、同社は最終的に人間規模へ向かう道を示唆しています。
だからこそ、この話題は科学のニュースであると同時に、社会のニュースにもなります。
ただ人間の脳アップロード前に別の問題も立ち上がるでしょう。
たとえば、計算の中で動く生き物が当たり前になったら、私たちはそれをどう扱うのでしょうか。
痛みや苦しみがあるのかないのか、そもそも「感じている」と言えるのか。
今すぐ答えが出る問いではありません。
それでも、目の前で身づくろいをする姿を見ると、完全な無生物として片づけるのは難しくなります。
イーオンも、作り出す存在を気にかけるべきだという立場を示しています。
ここは、技術が進めば進むほど重くなる論点です。
そしてもう一つの利点は、こうした模型が「増やせる」可能性です。
生きたハエは一匹ずつしか存在しませんが、計算の中のハエは、理屈の上では複製できます。
条件を変えた実験を同時に走らせることも考えられます。
これは脳の研究を加速させる可能性を秘めています。
もしかしたら未来のリアルなゲームの中でプレーヤーの周りを飛ぶハエは、単純な繰り返しプログラムではなく、リアルさを出すために脳モデルで駆動しているかもしれません。
もっともその時代には、ゲーム内で全脳モデルで動いているのは、ハエだけではないでしょう。
イヌ、ネコ、ウシ、ウマ、そして自らをプレーヤーだと信じている「何か」でさえも。





















ゲーム内のNPCが「これ」に置き換わる未来もありそうですね。
これは大変興味深い。脳モデルの中の思考がデジタルデータで記述できるようになるのでしょうか?
ほ〜ん、で?
(ハエの)続きはVIP(マウス)がお送りします?
映えない私の事も軽く扱ってはいけないと思いますよ
昔、ニワトリの脳は8ビットCPUとかいう説が語られたことがあったが…
「この世は全て神のシミュレーション」というシミュレーション仮説がまたはかどりますね
記憶がエミュレーション対象に加わると、意識という倫理的な問題が生じるのではないでしょうか
外部からは仮想世界で行動する姿を観察できるだけですが、その仮想脳の中で意識や感情が生じている可能性があります
意識とは何か、感情とは何か
その本質は細胞の配線でしかない、となると私が今感じているその何はいったい・・・
現実の科学がグレッグ・イーガンの小説の世界に一歩近付いたんですね。
ドイツは宇宙開発レベルの投資で人間の脳のシュミレーション計画で
失敗したよね
あれは酷い、大ボラの計画で大金を失った
生物学としての革新より、プログラムとしての革新かもしれないと思います
脳の在り方を計算の内部構造として構築することに、効率や問題解決にどう役立つのかなど
意味はあるようにも思います。
ハエの行動を外部から見て、そのパターンを直接模写するよりも、どう優れるか
本物の脳を模写する意味はどこにあるのか
あえて、そこをとらえる方向かなと感じます。
それにより、実現可能な行動パターンや計算の効率化にどう役立っていくかでしょうか
僕が生きている内に人間の脳のエミュレーションや電脳、外部からの情報の出し入れを実現してほしい
ネフェルピトーを思い出す同士おるやろ
ニューロンの配線図はしかし、可塑性によって常時書き換えられますね。可塑性を再現できなければ時間停止、生き物というより死に物のシミュレーションということになりそう。これに身体を与えると謂わばゾンビ?
意識のハードプロブレムも解決すんのかな
倫理的な問題もしっかりと考えてくれるのか研究者は。人間のコピーなんてできたら怖すぎるよ。