飢えも病気も天敵もいない「楽園実験」の始まり
「楽園実験」が行われたのは1968年のこと。
60年代前半、アメリカ国立精神衛生研究所(NIMH)は、同国東部メリーランド州プールズビル近郊で農地を手に入れました。
この土地に建てられた施設で研究プロジェクトを率いていたのが、動物行動学者のジョン・B・カルフーン(1917〜1995)です。
1940年代から1950年代にかけて、カルフーンはネズミの行動観察の中で、特定のエリアでネズミが繁殖しすぎて過密状態が生じると、マウスに異常行動や個体間の攻撃増加などが起きることを発見します。
そしてカルフーンはこの現象が、当時世界的に進んでいた都市化で起こる諸問題と類似する可能性を考えました。
都市では、物資の流通が充実し、農村部と比べて非常に安定した暮らしができます。一方で、都市は人口密度がどんどん高まっていくことで、社会的なストレスが高まっていくことが指摘されていました。
そこでカルフーンは「限定された空間に一切の脅威がない楽園を作りそこで生活させたら、その生物はどうなるんだろう?」と考え、1968年の7月9日にマウスを用いた楽園実験を開始しました。
カルフーンの前提によると、生物が生きる上での脅威は主に5つにまとめられています。
その1:住む場所を失うこと
その2:食糧不足に陥ること
その3:異常気象や悪天候に晒されること
その4:細菌やウイルスなどの病気にかかること
その5:自分を食べたり殺そうとする天敵がいること
これらはすべて、高度な文明を築いた私たち人間にもそのまま当てはまりますね。
そこでカルフーンはこの5つの脅威を完全に排除したマウスのパラダイス空間を作りました。
具体的には、縦横2.7メートルの四辺を高さ1.4メートルの壁で囲い、その中に16個の巣穴と256個の居住エリアを設置。
水や食料は壁伝いで無制限に得られるようにし、衛生状態にも入念に注意して、エアコン等で常に快適な気温を保ちました。
もちろんマウスを襲う天敵もおらず、カルフーンの見積もりによると、最大3000匹のマウスが無理なく暮らせる環境でした。
楽園が整ったら、いよいよ実験開始です。
最初はオスメス4匹ずつ、計8匹のマウスを楽園に投入しました。
実験に使用されたマウスたちの寿命は約800日です。マウスにとって10日が人間の1年ほどに感じられるため、この歳月は人間に換算するなら80年くらいです。
楽園に放たれたマウスは当初、見ず知らずの慣れない環境にかなりの戸惑いを見せました。
しかし水や食料はいつでも好きなだけ手に入るし、天敵もいない、いつも快適な気温が続くことがわかると、全員がのびのびと暮らし始めます。
だだっ広い楽園の中で、各々が好きな巣穴や居住エリアを棲み家とし、みんなが何不自由なく平等かつ快適に生活するようになりました。
そうして実験開始から104日目、ついにオスとメスのつがいから最初の子供「楽園ベイビー」が生まれます。
カルフーンは、マウスが楽園生活に慣れてから最初の子供が生まれるまでの期間を「フェーズ1:適応期」と呼びました。
ここからマウスは勢いよく数を増やしていくのですが、徐々に暗雲が立ち込め始めるのです。