第1章:量子力学の基礎をざっくり理解する
古典物理学(主に中学や高校で習う古い物理学)では、リンゴが木から落ちる理由(重力)や、台車にかかる力と加速の関係(運動方程式)など、直感的に理解しやすい法則が多く見られます。
ところが、量子世界では測定や観測こそが系の状態を大きく左右する――むしろ、測定を行うことで「初めて」粒子の性質が定まる、という奇妙な性質が見られます。
古典物理学では「人間が観測をしようがしまいが、結果は変らない」とされていますが、量子力学の世界では人間が行う観測そのものが物理現象の中に組み込まれ、現象そのものを変質させてしまうのです。
そのため観測によって起こる問題は「観測問題」と呼ばれており、多世界解釈というアイディアを知るための第一歩となります。
ここでは、量子力学の基本原理と、そこから生まれた観測問題の概要を紹介します。
量子力学とは何か
量子力学では、電子や光子(光の粒子)などの極めて小さな存在を扱います。
古典物理学の視点に立てば、「電子はボールのような粒子で、光は波だ」という単純なイメージを抱きがちです。
しかし、実際には電子は波の性質を示し、光は粒子の性質を示すことがある、という驚くべき事実が明らかになりました。
たとえば有名な「二重スリット実験」では、1個ずつの電子を2つのスリットに射出すると、1個の電子が同時に2つのスリットを通過し、干渉パターン(しま模様)を形成するという不思議な実験結果が得られます。
つまり、発射するときには1個、観測されたときも1個なのに、その1個の電子が2つの穴(スリット)を同時に通過するのです。
この現象は、電子が「粒子」でありながら「波」の性質も持っていることを示しており、一つの電子が複数の経路を同時に通るという直観に反する挙動をとることを示しています。
(※この実験セットに限定すると、干渉パターンは量子的現象が起きたことを示す証拠にとして機能します)
さらに量子力学では、「ある状態」と「別の状態」が同時に存在する重ね合わせ(superposition)と呼ばれる概念が登場します。
たとえば電子のスピン(方向感覚のようなもの)が「上向き」と「下向き」の両方を同時にとり得る――それが重ね合わせです。
ただし、私たちが観測(測定)を行うと、結果は「上向きか下向きのどちらか一方」に定まる、というのが量子力学の実験的事実です。観測前は「複数の可能性を同時に抱えている」状態で、観測後はどこか一つに落ち着いてしまう。このプロセスが量子力学独特の世界観を生み出します。
シュレーディンガーの猫のパラドックスはこの重ね合わせの不思議を象徴する思考実験としてしばしば取り上げられています。
物理学者エルヴィン・シュレディンガーは、次のような装置を考えました。
『放射性物質があり、それが崩壊するかどうかは量子的な確率で決まるとし、もし崩壊が起こると、それを検知する機構が作動して毒ガスを放出し、箱の中の猫は死んでしまう。崩壊が起こらなければ毒ガスは出ず、猫は生存したまま』
量子力学の立場に立つと、放射性物質は「崩壊した状態」と「崩壊していない状態」の重ね合わせになり得ます。となれば、その結果に連動している猫も「生きている」と「死んでいる」の重ね合わせで存在しているはずです。
ところが、箱を開けて観測(測定)した瞬間には、猫は生きているか死んでいるかのどちらかに定まる。いったい、この“定まる”というプロセスはどう理解したらよいのでしょうか?
これこそが量子力学の「測定問題」であり、のちに多世界解釈が登場する大きなキッカケの一つとなります。
測定問題の核心
量子力学は、電子などの状態を「波動関数」という数学的な式で記述します。
波動関数は「その物体(や粒子)が、空間のどこに、どんな状態で存在するかを表す“可能性の分布を示す地図”のようなものです。
この可能性の地図を使うことで小さな電子、巨大分子フラーレン、そして人間すらも波動関数として描くことができます。
「人間なんて大きくて重いし、原子の集合体だから、波動関数なんてあるの?」と思うかもしれません。
しかし理論上は「人間にも波動関数は存在する」と言えます。
そのため1個人であっても、2つのスリットを同時に通過することも「理論上は」可能となっています。
(※ただしその波動関数はものすごく大きくて複雑ものになり、実際に人間の波動関数を書き出すことは極めて困難となります。また人間のように巨大な物体は内部の原子同士が相互作用して容易に「観測」と同じ状況が起きてしまうため、人間を波にするのも極めて困難となっています)
重ね合わせの状態にあるとき、この波動関数は収縮しておらず、空間のさまざまな場所に存在確率が分布している状態にあります。
電子がいくつもの場所に“ぼんやり”と存在しているイメージとも言えるでしょう。
しかしいざ観測を行うと、「その電子がここにいた!」と、突然、はっきり定まってしまいます。
これを「波動関数が収縮した」といいます。
また別の言葉では、量子的状態が崩壊したとも表現されます。
どちらにしても、重ね合わせ状態が、一瞬にして“ひとつの場所”や“ひとつの状態”へと絞り込まれるのです。
つまり波動関数の収縮とは、本来ならいろいろな可能性が同時に存在するはずの状態が、観測した途端に、ひとつの“実際の結果”へと確定してしまうように見える現象とも言えるでしょう。
この「収縮」は物理学者の立場でも議論が絶えず、根本的な疑問を生み出してきました。「測定装置が量子系に触れると何が起きるのか?」「観測とは何が決め手なのか?」など、数多くの解釈や理論的議論が展開されてきたのです。
そしてこの問題は科学哲学にも普及していきます。
猫の話に戻れば、「観測」が行われるまで猫は生と死を重ね合わせているのかもしれません。
しかし、もし箱の中の猫自身が「観測者」だとしたら?
あるいは「見ている人」以外にも観測者は成り立つのでは?
こうした突き詰めた問いが、「意識」と量子力学の結びつきまで論じる議論や、「観測者」と「被観測系」を同等に扱おうとするアプローチを生み出しました。
そこで登場したのが多世界解釈です。