第6章:まとめ「多世界解釈の危機は発展の痛み」
ここまでの章を通して、多世界解釈がなぜ“危機”にさらされているのか、そして量子力学の観測問題をめぐる新しい視点や研究の動向を見てきました。
古典的には「観測による波動関数の収縮」という不可解な要素を回避するため、多世界解釈がある種の“大胆な救済案”として注目を集めてきました。
しかしCollins & Popescu の新研究は、多世界解釈の中でも重要視されてきた「測定時における保存則の説明」を、単一世界のみで実現しうる道を切り開いた可能性があります。
これまで多世界解釈を支えてきた一つの柱──「測定で波動関数が収縮したように見える過程でも、宇宙全体が分岐することで保存則は破れない」という議論──が、もはや“MUST”ではなくなったとするならば、確かに「危機」と言えるでしょう。
ただし、冒頭にも述べたように、量子力学の解釈論争は非常に奥が深く、保存則のパラドックスが解消されてもなお「測定問題」「意識や観測者の役割」など、他にも難問が山積しています。
多世界解釈の将来がこれですべて否定されるわけではありません。
しかし、保存則の面から見た“独自の優位性”が薄れれば、多世界解釈を“どうしても選ばなければならない”という必然性が揺らぐのは確かです。
こうした状況変化は、量子力学のさらなる発展にとってむしろ健全なあるべき姿と言えるでしょう。
ある理論の優位性がいつまでも変わらなければ、それは信仰と同じであり、人類が理論的な発展をしていない証拠とも言えるからです。
むしろ多世界解釈をめぐる議論は、Collins & Popescu の成果が導火線となり、一部の研究者にとっては大きな転機をもたらすかもしれませんし、他の研究者にとっては単に別の視点を提供するだけで終わるのかもしれません。
重要なのは、こうした議論自体が量子力学の深淵をさらに掘り下げ、私たちの世界観を揺さぶり、思いもよらないアイデアや実験につながっていく可能性があるということです。
「みんな大好き」 といわれる多世界解釈は、確かに今、議論の矢面に立たされています。
しかし、それは量子力学の真理がさらに一歩先へ進むための健全な衝突でもあります。
未来の量子力学は、ひょっとしたら「もっと魅力的な多世界」かもしれないし、あるいは「ひとつしかない巨大な宇宙」の見方がいっそう明快になるのかもしれません。
どちらにせよ、量子論の旅はこれからも進んでいくでしょう。
本文中に書かれている通り、多世界解釈の本題は、射影公理の導入の不自然さ、フォン・ノイマン鎖の無限後退問題、量子的な確率分布から単一の確率事象だけが選択されるメカニズムについての未知、などの方が中心なので、別に保存則が破れていても保たれていても、多世界解釈であることには変わりがないような…
東北大学の堀田先生のNoteにも、1回の測定であっても保存則は成り立つ
的なことは既に書かれていたはず?