圧力を分散するための「セーフティネット」を持っていた?
水中生活においてクジラの障壁となるのは、水深が増すにつれて増大する「外部圧力」だけではありません。
クジラは潜水する際に、大きな尾ビレを上下に動かすフルーキング(fluking)を行いますが、これが心血管系に多大な「内部圧力」を与えるのです。
フルーキングをするたびに内圧が高まり、尾ビレから腹部、胸部、そして血流に圧力波が生じます。
この圧力波が脳に到達すれば、繊細な毛細血管は粉々に破壊されてしまうはずです。
陸上で暮らす動物であれば、内部圧力は単に外に吐き出せば済むのですが、クジラの場合、水中では息を止めていますし、外部圧力もかかるのでそうはいきません。
こうした内と外からの圧力にクジラがどう対処しているかは、専門家にとって長年の疑問となっていました。
そこで研究チームは今回、ヒゲクジラの一種である「ナガスクジラ(学名:Balaenoptera physalus)」を含む11種類のクジラ類を対象に、解剖学的構造を詳しく調査。
それをもとに、潜水するクジラにかかる圧力および流体力学のコンピュータモデルを作成しました。
その結果、クジラの体内には、圧力の緩衝材となる”セーフティネット”が存在することが示されたのです。
それが「奇網(retia mirabilia)」と呼ばれる、静脈と動脈からなる巨大な血管網です。
奇網はクジラに特有の器官ではなく、魚類や鳥類、哺乳類などの脊椎動物に見られます。
こちらは、ヒツジの体内に存在する奇網。
調査対象としたクジラ類の奇網は、心臓から全身に血液を送り出す「大動脈」と、脳に血液を供給する「血管系」の間に位置していました。
そして、シミュレーションの結果、この奇網が、クジラの脳にかかる圧力の実に97%をカットしていることが示されたのです。
シミュレーションによると、潜水に伴う外圧やフルーキングにより加圧された血液パルス(圧力波)は、複雑に絡み合う重層的な奇網を通過するときに、血管の大きな表面積で捕らえられ、まとまった力が分割され、さらに脳脊髄液の助けを借りて、拡散されていました。
そのため、血液パルスが奇網を通り越して、脳側の血管系に到達する頃には、圧力の大部分が緩和されていたのです。
クジラは約5000万年前に、一度陸に上がった祖先が再び海中に戻ったことで進化しました。
しかし、劇的な生活環境の変化は、「圧力」という新たな難題をクジラに課すことになります。
その障害を乗り越え、水中で生き延びるために、クジラは「奇網」というセーフティネットを発達させたのでしょう。
また、研究チームは「哺乳類でこれと似たようなシステムを備えているのは、クジラ類だけではない」と指摘します。
たとえば、長い首を持つキリンは、水を飲んだ後に頭を上げると、脳にかかる圧力が急に変化することで、失神する危険性があります。
しかし、後頭部にある奇網(ワンダーネットとも呼ばれる)が、首の上下による頭部の血圧変動を吸収することで、失神せずに水が飲めると考えられるようです。