研究者の意に反して「奴隷」の証拠が見つかってしまう
レオナルドの両親についてはこれまで、父親の家系しか解明されておらず、母親の出自に関しては調査が難航していました。
確実に分かっているのは、レオナルドがトスカーナ州にあるヴィンチ村で婚外子として生まれ(レオナルド・ダ・ヴィンチとは「ヴィンチ村のレオナルド」という意味)、両親は結婚していないこと。
父親は裕福な公証人のセル・ピエロ、母親はカテリーナという名前だったことです。
またセル・ピエロはその後、アルビエラ・アマドリという女性と正式に結婚し、彼女が1464年に亡くなった後にも3度の結婚を繰り返しています。
その結果、総勢16人の子どもがいたそうで、レオナルドは父の元で教育を受けながら育ったという。
カテリーナについてはその他にほぼ何も分かっておらず、様々な仮説が提唱されていました。
たとえば、2014年にイタリアの歴史家アンジェロ・パラティコ(Angelo Paratico)氏が「カテリーナはヴェネチアの商人がクリミアから連れてきて、フィレンツェの銀行家に売った中国人の家事奴隷だった」と主張して物議を醸しています。
他にも「カテリーナは孤児として育ち、セル・ピエロに会ったときは廃墟のような農家の家に住んでいた」とする説もあります。
ヴェッチェ氏自身は、こうしたカテリーナの奴隷説や孤児説にはかなり抵抗があり、どうにか反証したいと思っていたと言います。
ところがヴェッチェ氏の意に反し、フィレンツェ国立公文書館での古文書の調査中に、セル・ピエロの手による思いも寄らない未公開の公証人証書が発見されたのです。
そこには、カテリーナがコーカサス地方(黒海とカスピ海に挟まれた地域)から連れ出され、奴隷としてイタリア各地を転々とした後フィレンツェにたどり着き、若き公証人セル・ピエロと出会ったことが記されていました。
ヴェッチェ氏は「その文書を見たとき、私は自分の目を疑いました。カテリーナが外国から連れられてきた奴隷だったとする説を信用していなかったのですから」と説明。
「そこで文書に登場するカテリーナがレオナルドの母親でないことを証明するために数カ月を費やしましたが、結局すべての事実がその方向に進み、私は降参せざるを得ませんでした」と話しています。
この証書は「カテリーナを奴隷から解放する」という内容がメインで、公証人セル・ピエロの署名が入っており、日付は1452年11月2日(レオナルドが生まれて半年後)となっています。
また、カテリーナはコーカサス地方にいたチェルケス人(※)の娘で、10代前半におそらくタタール人に誘拐され、奴隷としてヴェネチア人に売られた後、15歳頃にフィレンツェにいたセル・ピエロの元に送られたことが記されていました。
フィレンツェに着いたのは1442年のことです。となると、レオナルドを産んだときは25歳頃と考えられます。
(※ チェルケス人とは、黒海の北東沿岸部にあったチェルケス地方に住んでいた人々で、のちにロシア人によって何百回と略奪行為に遭い、少なくとも60万人が虐殺や飢餓で落命し、何十万人も故郷を追われている。
1864年までに人口の75%が失われ、チェルケス人は近代最初の「祖国を失った民族」となった)
そしてセル・ピエロは奴隷として働くカテリーナに手を出し、レオナルドが誕生したと見られます。
奴隷は主人の私有財産でしたが、当時の社会では妊娠させると厳しい罰則が科せられました。
カテリーナに関する文書を読んでみると、かなりミスが目立ち書き手が狼狽していた様子が伺えるという。
これについて、ヴェッチェ氏は「(カテリーナの件で)罰を受けないかセル・ピエロがかなり緊張しながら書いていたことの表れでしょう」と指摘します。
本研究の成果はまだ学術論文として正式に発表されておらず、査読を受けている最中であるという。
またヴェッチェ氏は現在、見つかった文書をもとにカテリーナの生涯を描いた歴史小説(仮題:Il Sorriso di Caterina=「カテリーナの笑顔」)を執筆しているとのことです。