第二次世界大戦後、日本から切り離された伊豆諸島
そもそも大島で独自の憲法が制定されるきっかけになったのは、1946年1月29日のGHQ覚書です。
1945年に受諾したポツダム宣言では、日本の主権が本州、北海道、九州、四国などの主要な島と連合国軍の決定する小さな島に限定されることが規定されていました。
しかし具体的にどの島が含まれるのかについてはこの時点では決まっておらず、1946年に改めて決められたのです。
当時のGHQの関係者は、日本の地理にあまり詳しくなかったこともあり、伊豆諸島を他の太平洋諸島の一部と考えていました。
この覚書によって、大島を含む伊豆諸島は日本から切り離され、たちまち宙ぶらりんの状態になったのです。
この話を受けて、伊豆諸島の島々では様々な動きがありました。
利島では大混乱が起き、日本への復帰を求める動きがありました。
一方式根島では、このような話をそもそも信じていない人が多く、せいぜい噂程度に収まりました。
また八丈島や三宅島といった伊豆諸島の中でも比較的人口が多く、指導的な立ち位置にあった島では、独立論が上がっていました。
そのような中で伊豆大島では、独立論が上がるだけでなく、独立した時に備えて独自の憲法まで作っていたのです。
独自の憲法とは?
それでは伊豆大島にて制定された独自の憲法の大島大誓言とはどのようなものであったのでしょうか?
大島大誓言の前文は、
吾等島民ハ現下ノ状勢ニ深ク省察シ島ノ更生島民ノ安寧幸福ノ確保増進ニ向ッテ一糸乱レザ
ル巨歩ヲ踏ミ出サムトス
吾等ハ敢テ正視ス,吾等ハ敢テ廿受ス,吾等ハ敢テ断行ス
仍テ旺盛ナル道義ノ心ニ徹シ万邦和平ノ一端ヲ負荷シ茲ニ島民相互厳ニ誓フ
一、近ク大島憲章ヲ制定スベシ
一、暫定措置トシテ左記ノ政治形態ヲ採用シ即時議員ノ選挙ヲ行フベシ
一、当分ノ間現在ノ諸機関ハ之ヲ認ム
とあります。馴染みのない文章で読みづらいですが、これは要約すると
「私たち伊豆大島の島民は現在の状況を顧みて、これからは島民の安心と幸せのために頑張っていく。また平和にも貢献していく。」
ということが述べられており、日本国憲法と同様に平和主義を謳う内容も含まれています。
一方で暫定的なものであるとも書かれており、あくまで一時的なものであるとされました。
この大島大誓言は3章23条で構成されており、1章は統治権、2章は議会、3章は行政で構成されています。
この大島大誓言は、統治機構を中心に規定しており、島民主権の原則が示されています。
また議会と行政府は島民の選挙によって選出され、直接民主主義的な要素も含まれているのです。
憲章には日本国憲法に類似する内容も見られますが、特徴的な点として村長が議員資格を持ち、執政長が島の代表としての役割を果たすことが定められています。
また、司法権に関する項目は後から追加される予定だったと思われます。
大島大誓言の評価とその後の動き
この大島大誓言の特筆すべき点は、法律の専門的知識を持っていない人が中心となって作られた点です。
大島大誓言の制定は、大島の元村の村長の柳瀬善之助や共産党員の雨宮政次郎ら7名が中心となって行われました。
柳瀬は村長になる前は農林学校(今の農業高校)で教員を務めていたり、観光に関する事業をしたりしていましたが、法律について専門的に学んだことはありません。
雨宮は共産党員として活動をしていたこともあって、マルクスやレーニンの書籍を読んで自分なりに政治や経済について勉強していましたが、やはり法律を専門的に学んだことは無いのです。
このように専門的な訓練を受けていなくても、彼らは自身の信念と島民の幸福のために尽力し、仮ではあるものの憲法を作ったのです。
その後1946年3月22日、GHQは伊豆諸島を日本に復帰させる指令を出し、再び伊豆諸島は日本の施政下に戻りました。
戦後の混乱の中で大島大誓言は雲散霧消し、1997年に朝日新聞が報道するまで日の目を見ることはありませんでしたが、彼らの努力と覚悟は後世に継承され大島大誓言は伊豆大島の歴史において勇気ある試みとして称えられるようになったのです。