「原爆の父」オッペンハイマーはどれほど優秀な物理学者だったのか?
オッペンハイマーは物理学者として、どれほど優秀だったのか?
答えを出すには最低限、同時期にどんな物理学者がいたかを知らねばなりません。
オッペンハイマーは1904年生まれで、1967年に62歳で世を去ります。
この間に存在した最も有名な物理学者と言えば「アインシュタイン」でしょう。
時空の歪みや重力の神秘を解き明かしたアインシュタインの名声は、ニュートンに並ぶと言えます。
波動方程式を考案したシュレーディンガーも同時期に活躍した偉大な物理学者です。
他にも量子力学の不確定性原理を導いたハイゼンベルグ、電子や陽子が空間的に重なれないことや、電子のスピンを発見したパウリ、ディラック方程式やディラックの海を提案したディラックなど、圧倒的な業績を持つ偉人が並びます。
物理学者の名前に詳しくなくとも、不確定性原理やパウリの排他律、ディラックの海といった理論名なら知っている人も多いでしょう。
20世紀初頭は量子理論に革命が起きていた時期であり、新たな理論が新たな偉人と一緒に次々に登場しました。
残念なことに、オッペンハイマーは彼らと同クラスの物理学者ではありませんでした。
しかしその主な原因は、オッペンハイマーの能力とは別にありました。
オッペンハイマーが生まれた時期は、1904年です。
一方、アインシュタインは1879年、シュレーディンガーは1887年、ハイゼンベルグは1901年、パウリは1900年、ディラックは1902年となり、全員オッペンハイマーよりも早く生まれています。
「生まれた年が少し遅いだけで業績に差が出るのか?」と疑問に思うかもしれません。
しかし新たな量子理論が次々に現れる革命期には、ほんの数年、生れ年が遅うだけで大きな影響が出ます。
実際、オッペンハイマーが博士号を取得し物理学者として独り立ちした時期は、多くの量子理論が出そろっており「応用の時代」となっていました。
(※米国の科学哲学者トーマス・サミュエル・クーンの言葉を借りれば「掃討作戦」の時代となるでしょう)
しかしそんな応用の時代でも、オッペンハイマーは優れた業績を残しています。
その1つが、量子力学の教科書にはかならず乗っている「ボルン・オッペンハイマー近似」です。
(※もう1つのブラックホールに関わるノーベル賞級の業績については次ページを参照)
なんだか難しそうな名前ですが、極論するなら「円周率に3.14ではなく3を使う方法」となります。
というのもボルン・オッペンハイマー近似は計算の負担を減らす、非常に便利な方法だからです。
原子や分子の挙動をシュレーディンガーの方程式で正確に表すには、原子核と電子の両方の運動について考えなければなりません。
現実に存在する原子は、原子核も電子も常に動いているからです。
ですがボルン・オッペンハイマー近似では電子に比べて原子核は非常に重く動きも遅いため、シュレーディンガー方程式などで電子の動きを考えなければならないときには「とりあえず原子核は停止していると考えても問題ない」とされます。
ボルン・オッペンハイマー近似で導き出される数値は厳密な意味で真実ではありませんが、計算の手間というデメリットを、計算簡略化のメリットが上回るのです。
アインシュタインの相対性理論に比べれば、若干、見劣りするかもしれません。
しかし重要な発見なのは確かです。
ボルン・オッペンハイマー近似を誰かが考え付かない限り、人類はシュレーディンガー方程式をまともに解けなかった可能性があるからです。
しかしオッペンハイマーの業績はこれ1つだけではありません。
実は、オッペンハイマーはブラックホール理論における、先進的な理論をうみだしていたのです。
そしてこちらは便利ツールではなく、正真正銘ノーベル賞級となっています。